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「いのちの手応えを感じて」

詩編126:1~6
マルコ6:30~44

主日礼拝

井ノ川勝

2025年7月20日

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1.①私がかつて伝道していました伊勢の教会には、幼稚園がありました。毎週、園児と共に礼拝を捧げ、園児に御言葉を語っていました。幼い魂に、御言葉を語る。こんなに嬉しいことはありません。ある日の礼拝で、主イエスが5つのパンと2匹の魚を祝福し、5千人の人々を満腹させた御言葉を語りました。幼稚園の帰り道、りょう君がお母さんに、なぞなぞを出しました。「分ければ分ける程、増えるものって何だ」。「分ければ分ける程、どんどん小さくなって行くわね。何かしら。うーん。降参」。「それはね。神さまの恵みだよ」。

 5つのパンと2匹の魚を分けて、5千人の人々を満腹させた御言葉を、園児が自分の言葉で言い換えて、お母さんに話をする。素敵なことだなと思いました。

 

今日の御言葉は、4つの福音書全てに書き留められています。それだけ、最初の教会が愛して止まない、大切な御言葉であったのです。子どもたちに話をする時にも、家族や友人に話をする時にも、主イエスはこんなことをされたのだと、喜んで話をしたと思います。しかし、それは昔を懐かしむ思いで話をされたのではありません。教会は昔から食卓の交わりを大切にして来ました。礼拝でも、キリストのいのちに与る食卓の交わりが行われます。食卓の交わりにおいても、礼拝の交わりにおいても、主イエスが5つのパンと2匹の魚を祝福し、分けて与えて下さる。私どもは神の恵みで満ち足りる。その出来事が今、ここでも起こっていると、受け止めて来たのです。

 この場面を思い浮かべた時、私どもは春の夕べ、青草の上で、5千人の人々が、5つのパンと2匹の魚で満腹した、のどかなピクニックの光景を想像します。しかし、この出来事の直前には、心引き裂かれるような事件が起こりました。主イエスに先立って登場した洗礼者ヨハネが、ヘロデ王によって斬首されるという、誠に痛ましい事件が起こりました。当然、次に命が狙われるのは、主イエスです。殺意の手が主イエスに伸びている。そのような不穏な中で行われた野外での食事であったのです。食卓の交わりはいつも死と向き合っています。いつも一期一会の出来事です。これが地上での最後の食卓の交わりになるかもしれない。そのような思いでなされた野外の食事であったのです。

 

2.①毎年、夏休みになりますと、神学校から神学生が派遣されて、夏期伝道実習をされます。主日礼拝で説教する。教会学校で御言葉を語る。夏期学校で奉仕をする。高齢・病気の教会員を訪問します。緊張の日々です。実習が終われば、疲れ果てます。夏期伝道実習が終われば、神学校に帰り、伝道報告をします。

 主イエスの弟子たちも、初めて主イエスに遣わされて、町々村々で伝道をしました。いっぱい恵みを経験しました。同時に、失敗も挫折も味わいました。主イエスの許に帰って来た弟子たちは、伝道報告をしました。主イエスは弟子たちに語られました。

「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」。

次の伝道のためのエネルギーを蓄積するために、寂しい所へ行って、休みなさいと言われた。「寂しい所」は、以前の聖書では、「人里離れた所」と訳されていました。主イエスがしばしば一人祈るために退かれた祈りの場所です。そのような場所が弟子たちにも必要であると、主イエスは案じておられました。主イエスは弟子たちを舟に乗せて、人里離れた所へ向かいました。ところが、方々の町から人々がうわさを聞いて、歩いて先回りをしていました。主イエスと弟子たちが到着した時には、大勢の人でいっぱいでした。男性だけでなく、女性も、子どもたちもいました。

 

主イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみました。主イエスは大勢の群衆を十把一絡げで御覧になられたのではありません。主イエスのまなざしは、群衆の一人一人に向けられました。疲れ果てているのは、弟子たちだけでない。群衆一人一人も疲れ果てていると、主イエスのまなざしに映りました。何故、私どもは疲れ果ててしまうのでしょうか。飼い主のいない羊のような有様になっているからです。羊飼いを見失って、さまよい歩いている羊のようになっているからです。

 羊は弱い生き物です。一匹だけでは生きられません。群れをなさなければ生きられない生き物です。羊飼いがいなければ、生きられない生き物です。主イエスは私どもを羊として見ておられます。私どもは一人で生きることが出来ないのです。私どもの歩みを導き、私どもを守り、助けて下さる羊飼いが必要なのです。弱った者を力づけ、病める者を癒し、傷ついた者を包み込み、散らされた者を連れ戻し、失われた者を捜し求める羊飼いが必要です。その羊飼いこそ、主イエスなのです。

 羊が羊飼いを見失ったら、さまよい歩き、飢え乾き、疲れ果て、滅びの道を突き進んでしまいます。

 主イエスは私どもの羊飼いとして、深く憐れんで下さいます。「深く憐れむ」は、単なる同情ではありません。この言葉は特別な言葉です。主イエスが語られた「放蕩息子の譬」「よきサマリア人の譬」にも用いられています。父なる神さま、主イエスだけに用いられる言葉です。元の意味は面白い言葉で、「内臓」という言葉です。内臓は体の中で大切な臓器です。内臓がきりきり痛みますと、体全体に痛みが走ります。我慢できなくなります。内臓が引き千切れる程の痛みをもって、私どもと共に苦しんで下さる。それが「深い憐れみ」です。主イエスは全身、深い憐れみで、群衆の一人一人にまなざしを注がれたのです。そして疲れ果て、飢え乾く一人一人の魂に、いのちの御言葉を届けられました。群衆も自分に語られた御言葉として、集中して御言葉を聴きました。

 

3.①時もだいぶ経ち、遅くなりました。夕暮れが近づいて来ました。弟子たちが主イエスに提案しました。

「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」。

主イエスは語られました。

「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」。

弟子たちは答えました。

「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」。

1デナリオンは1日分の賃金です。200デナリオンは200日分の賃金に相当します。5千人の人々の夕食には、それだけの代金と量が必要でした。主イエスは語られました。

「パンは幾つあるのか。見て来なさい」。

弟子たちは確かめて報告しました。

「5つあります。それに魚が2匹です」。

弟子たちは心の中で思ったことでしょう。「僅か5つのパンと2匹の魚では、全く足りないではないか」。

 しかし、主イエスは弟子たちに、お命じになられました。皆を組に分けて、青草の上に座らせなさい。人々は、100人、50人ずつまとまって腰を下ろしました。エジプトを脱出した神の民が、荒れ野の40年間の旅で、隊列を組んで行進し、隊列を組んで宿営した姿と重なり合います。主イエスを中心とする新しい神の民として、組に分け、秩序をもって座らせました。

 その時、主イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせました。2匹の魚も同じように、皆にお分けになりました。この時の主イエスの動作を、弟子たちも、人々も忘れることは出来ませんでした。目に鮮やかに焼き付けられました。それ故、主イエスの一つ一つの動作が丁寧に描写されています。

 注目すべきは、主イエス手ずから、パンと魚を裂いて、人々に渡されたのではありません。弟子たちに手渡して配らせました。それ故、主イエスが語られたこの言葉が、ぐいと浮かび上がって来ます。

「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」。

 僅か5つのパンと2匹の魚です。しかし、主イエスによって祝福されたパンと魚は、弟子たちの掌から尽きることはありませんでした。弟子たちは驚いたことでしょう。配っても配っても、掌のパンと魚が尽きません。弟子たちは神の恵みの豊かさを体で感じました。5千人の人々は皆、食べて満腹しました。しかも更に驚くべきことに、パン切れと魚の残りを集めると、12の籠いっぱいになりました。12はイスラエル12部族、神の民を表す数です。主イエスを中心とする新しい神の民が誕生した出来事となりました。

 

主イエスはこれまで、様々な奇跡の御業を行われました。12年間、出血の止まらない女性を癒されました。会堂長ヤイロの死んだ娘を生き返らせました。嵐の湖で沈みそうになった弟子たちの乗った舟の上で、嵐を静められました。皆、生きるか死ぬかの説破詰まった状況の中で、しかも「助けて下さい」と切実な求めに応じて行われた奇跡の御業でした。しかし、5千人への給食の奇跡の御業は、生きるか死ぬかの説破詰まった状況で行われた御業ではありませんでした。しかも人々からの求めに応じてなされた御業でもありませんでした。主イエスの方から行われた御業でした。主イエスは「日毎の糧」の問題をも軽んじられません。そして何よりも、飼い主のいない羊のような有様を見て、深く憐れみという激しい内臓の動き、主イエスの憐れみのまなざしから生まれた御業でした。

 しかも主イエスは他の奇跡の御業と異なって、弟子たちの手を用いて、奇跡の御業を行っておられるのです。

 主イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせました。一つ一つがとても印象深い動作です。弟子たちは後に、この動作を再び目の当たりにすることになります。十字架の死を目前としてなされた、主イエスとの最後の晩餐の場面です。そこでも、主イエスはパンを取り、祝福してそれを裂かれました。また、エマオの夕べの食卓において、復活された主イエスと食事をした場面です。そこでも主イエスはパンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになりました。後に、教会の食卓・聖餐の原形となりました。教会は、主イエスのいのちのパンを共に分かち合う交わりです。主イエスのいのちを共に分かち合い、生かされる交わりです。十字架と復活の主イエスによって生まれた新しい神の民の姿が、ここにあります。

 

4.①5千人への給食の出来事は、四つの福音書全てが書き留めています。しかも、マルコ福音書では2度までも同じ出来事を記しています。8章1節以下です。何故、同じような出来事を二度までも記す必要があったのでしょう。弟子たちの鈍さを打ち砕くためです。パンの奇跡をされた主イエスとは誰なのかが分かっていなかったのです。主イエスは弟子たちを叱責されました。

「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」。

 そして主イエスは弟子たちに、御自分は何者なのかを明らかにされました。それが8章31節以下の「受難預言」です。

 わたしは十字架の道を歩む救い主であると、明確に告げられました。十字架で、あなたがたのために、いのちを注ぐ救い主であると語られました。

 実は、主イエスのこの「受難預言」を指し示している旧約聖書の御言葉があります。イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」です。(旧約1134頁)。

 やがて現れる苦難の僕は、私どもの病、痛み、背き、過ちを、身代わりとなって負うて下さる。苦難の僕が受けた打ち傷によって、私どもの傷は癒された。飼い主を失い、羊の群れのようにさまよっていた私どもは、苦難の僕が注がれたいのちによって、いのちの道を歩む群れとされた。将に、十字架の上で、私どものために注がれた主イエスのいのちによって、私どもはいのちの道を歩む者とされたのです。主イエスは私どものために、いのちを注がれた羊飼いとなられたのです。

 私どもが礼拝の食卓、聖餐で与る、いのちのパン、キリストのいのちです。

 私が日々、心に留めている御言葉があります。箴言30章7節以下です。(旧約1015頁)。

「私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ、貧しくもせず、富ませもせず、私にふさわしい食物で私を養ってください」。

 口語訳聖書はこう訳していました。

「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」。

 私どもには、「無くてならぬ食物」が是非とも必要なのです。その「無くてならぬ食物」こそ、いのちのパン・御言葉です。同時に、聖餐のいのちのパン、キリストのいのちです。私どもが死んでも生きるために、十字架で注がれたキリストのいのちによって、私どもは生かされるのです。

 

主イエスは弟子たちに語られました。

「あなたがたの手で食べ物を与えなさい」。

そして御自分が取り、祝福された5つのパンと2匹の魚を、弟子たちの手で5千人の人々に配らせました。主イエスは私どもの手を用いて、御業を行われるのです。私どもはこの小さな手で、主イエスが私どもに注がれたいのちの手応えを感じながら、主の御用をさせていただくのです。

 マザーテレサの朝の祈りがあります。曲が付けられ、歌にもなりました。

「私をお使いください~マザーテレサの祈り~」です。

「主よ、今日一日、貧しい人や、病んでいる人々を助けるために。

 私の手をお望みでしたら、今日、私のこの手を、お使いください」。

 私ども一人一人の小さく、貧しい手を、主はお用い下さるのです。尽きることのない豊かな神の恵みを預けて下さるのです。

「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と語りかけて下さるのです。

 

 お祈りいたします。

「主は僅か5つのパンと2匹の魚を祝福し、5千人の人々を満腹させるという豊かな恵みを目の当たりで行って下さるのです。その豊かな恵みを見ようとせず、聞こうとしない、頑なな私どもの心を、主イエスの注がれたいのちによって、打ち砕いて下さい。私どもの小さな手に、豊かな恵みを預けられる主よ、どうか私どもの手を、主の御用のためにお使い下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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