「ゆうぐれになっても光あり」
ゼカリヤ書 14章1~9節
ヨハネの黙示録 21章22~22章5節
井ノ川 勝 牧師
2026年5月10日
2026.5.10. 「夕暮れになっても光あり」
ゼカリヤ14:1~9,黙示録21:22~22:5
1.①皆さんは今、どのような現実と向き合って生きているでしょうか。現実というのは、今、私どもの生活の中心となっていることです。日々、私どもが向き合っているものです。高校生であるならば、学ぶこと、友だちと交わること、クラブ活動が、生活の中心となっています。今、皆さんが向き合っている現実です。
私のように日々、年齢を重ねて行きますと、日々、老いて行く現実と向き合っています。日々、老いて行く伴侶と向き合っています。また、90歳半ばを越え、日々老いて行く母の現実と向き合っています。そして何よりも、伝道者として、老いて行く教会員と向き合いながら歩んでいます。
そのような老いの現実と向き合っている中で、日々、心の中で口ずさむ御言葉があります。詩編90編の御言葉です。
「私たちは吐息のように年月を終える。
私たちのよわいは70年、健やかであっても80年。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。
残りの日々を数えるすべを教え、知恵ある心を私たちに与えてください」。
私が日々、心に思うことは、私の残された人生は後何年なのだろうか。その残された人生をいかに生きるべきなのか。そのような死と向き合う現実の中で、主に向かって祈ります。「主よ、残りの日々を数える知恵を与え、いかに生きるべきかを教えて下さい」。
私の日々の祈りは、恐らく、ここにおられる多くの方々の日々の祈りであると思われます。
②私どもの人生はしばしば、四季に譬えられます。春から夏へ、そして秋から冬へ。私どもは今、人生の秋を生きている。やがて人生の冬を迎えようとしている。また、人生は一日に譬えられます。朝から昼へ、昼から夕べ、そして夜へ。私どもは今、人生の夕べを迎えている。やがて夜を迎えようとしている。死と向き合いながら生きる人生を、このように表現しています。
聖書の中で、しばしば引用される御言葉があります。今朝、私どもが聴いた御言葉です。ゼカリヤ書14章の御言葉です。
「夕暮れ時になっても、光がある」。
夕暮れは日没の時です。しかし、日が沈んでもなお残るたそがれ、残照があります。かすかな光が残っています。日没に人生を重ねれば、高齢になって迎える晩年は、秋の日没でもあります。しかし、ゼカリヤ書のこの御言葉、「夕暮れになっても光あり」は、そのような光の現実を語っているのでしょうか。
この御言葉の真実の意味を、新たに心に刻む出来事がありました。
2.①かつて東京神学大学の教授であり、現在は銀座教会の協力教師として月に一度説教をされている近藤勝彦先生がおられます。私が大学生の時、洗礼を受けた母教会の牧師でもありました。最近、書かれた本に、『活けるキリストの現実』があります。その序文に、「夕暮れにあっても光ある現実」という表題が掲げられていました。その中で、ここ数年、家族に起きた出来事を綴っていました。私も初めて知った現実が記されていました。
数年前、コロナ禍の5年間、近藤先生は自らの神学の集大成として、『キリスト教教義学』を書き上げました。上下巻2300頁に及ぶ大著です。原稿が完成し、出版社に原稿を手渡そうとする時、妻が体調を崩されました。検査の結果、肺癌が発見されました。残された日々が長くないとの宣告を受けました。
妻が入院される前日、自宅に牧師を招き、聖餐を行いました。司式と説教は近藤先生が行われました。コロナのため礼拝に出席出来なかった妻にとって、10か月ぶりの聖餐であった。そこで近藤先生は妻に向かって、こう語られました。
私どもが今、向き合い、見ている現実は、死の現実かもしれない。私どもの命が死に吞み込まれる現実であるかもしれない。しかし、死の現実よりも、もっと確かな現実がある。それこそが活けるキリストの現実である。主イエス・キリストがここに生きておられる現実である。主イエス・キリストは、あなたのために十字架でいのちを注いで下さったではないか。あなたが生きるためである。主イエス・キリストは死に打ち勝ち、甦られたではないか。あなたが生きるために。主イエス・キリストは死を超えたいのちを拓いて下さったではないか。あなたが死を超えて生きるために。今、キリストのいのちである聖餐に与ることによって、活けるキリストが私どもと共に生きておられる神の現実を見る。味わう。この神の現実こそ、死の現実よりも遙かに確かな現実なのである。それは、夕暮れになっても光ある現実なのである。
妻にとって、それが最後の聖餐となった。
②「夕暮れになっても光がある」。ゼカリヤ書14章のこの御言葉は、私どもの人生の終わりを語るだけの御言葉ではありません。私どもが生きているこの歴史の終わりを語る御言葉です。終末を語る御言葉です。
人生を生きる私ども、歴史を生きる私どもに、いつも問われていることがあります。私どもの人生の終わりに、一体、誰が立つのか。いかなる言葉が最後に立つのか。私どもが生きる歴史の終わりに、一体、誰が立つのか。いかなる言葉が最後に立つのか。私どもの人生の終わりに立つのは、死なのでしょうか。私どもの人生の最後に語られる言葉は、この言葉なのでしょうか。「あなたの命は終わった」。私どもが生きる歴史の終わりに立つのは、権力者なのでしょうか。それとも世界の破滅なのでしょうか。私どもの歴史の最後に語られる言葉は、権力者の言葉なのでしょうか。「私は世界を支配した」。それとも、破滅の言葉なのでしょうか。「世界は終わった」。
神の言葉を託された預言者ゼカリヤは語ります。
「しかし、ただひとつの日が来る」。ただ一つの日とは何でしょうか。「その日になると、光がなく、寒さも霜もない。昼もなければ、夜もない」。その日は、もはや昼と夜の区別もなく、寒暖を表す四季の区別もない。太陽の光も、月の光もない。「夕暮れ時になっても、光がある」。この光とは何を指しているのでしょうか。
預言者ゼカリヤは語ります。「しかし、ただ一つの日が来る」。「その日には、主はただひとり、その名もただ一つとなる」。「主はすべての地の王となられる」。「わが神、主は来られる」。
歴史の終わりに立たれるのは、主なる神、ただひとり。主なる神が全ての地の王となられる。そこに死を打ち破る光がある。闇を引き裂く光がある。この神の光を、私どもは主イエス・キリストにあって、今、ここで仰ぎ見ることが出来るのです。夕暮れになっても光ある現実を見ることが出来るのです。
3.①私どもは日々、家庭において、学校において、職場において、社会にあって、様々な現実に直面します。いつも喜び溢れる現実とは限りません。むしろ厳しい現実です。身も心も押し潰されるような現実です。心引き裂かれるような現実です。魂の叫びを上げても、誰にも届かない現実です。本当に神はここに生きておられるのかと、疑ってしまう現実です。身も心も疲れ果てて、立ち上がれない現実です。私どもはこのような厳しい現実を一週間、生きて来たのです。
しかし、この朝、主は疲れ果てた私どもを礼拝へと招かれたのです。神の御前に立たせるのです。何故でしょうか。厳しいこの世の現実に逆らってまで、神の現実を見るためです。神がここに生きて働かれておられる神の現実を見るためです。この世の現実だけが、私どもが生きる世界の全てではないのです。この世の現実よりも、もっと確かな神の現実がある。その神の現実を、この礼拝において、心を高く上げてみよう。霊のまなざしを与えられて神の現実を見よう。神の現実をしっかりと見て、そこに根ざしながら、この世の現実と向き合おう。主は私どもに語りかけておられるのです。
この礼拝において、甦られた主イエス・キリストが、疲れ果てた私どもにいのちの息を注いで下さる。聖霊を注いで下さる。霊のまなざしを与えて下さるのです。主イエス・キリストが甦って生きておられる、ことを見るまなざしを与えて下さるのです。
②金沢教会は教会員の居住別に、5つの地区に分けています。各地区に2名の地区委員がいます。礼拝に出席出来ない高齢、病気の教会員を覚えて祈り、連絡を取り、訪ね、週報を手渡す、愛の配慮を行っています。毎月、第三主日の礼拝後、地区委員会を行っています。始めに、加藤常昭先生が書かれた『老いを生きる』を読んでいます。その本の始めのところで、加藤先生が強調されていることがあります。
高齢者と向き合う。病気の方と向き合う。そこで大切なことは、「看取る」ことである。「看取る」の「看」は看護の看という字が用いられます。「じっくり看る」ということです。看取るとは、最後までじっくり看ることである。高齢者、病人の苦しみ、痛みを、じっくり最後まで看る。しかし、私どもは高齢者、病人の苦しみの前で、何も出来ません。心揺れ動きながら、見守るだけしか出来ません。
「看取る」、じっくりと看る。一体、何を看るのでしょうか。目に見えるのは、衰えて行く肉体です。弱って行く体です。しかし、この家族にも、信仰の友にも、神が生きて働かれていることを看るのです。神が生きて働かれていることを指し示すのです。それが看取ることです。教会はそのような霊のまなざしが与えられた看取りの共同体です。
4.①「夕暮れになっても光ある」現実がある。預言者ゼカリヤは語りました。このゼカリヤの預言者のまなざしと同じまなざしに生きた預言者こそ、ヨハネの黙示録を綴った伝道者ヨハネです。いや、ヨハネが綴ったというよりも、神の現実、神の幻を見せていただいたのです。
ヨハネの黙示録は、生まれたばかりの小さな教会が、強大なローマ帝国の迫害を受けた時代に綴られた御言葉です。何故、小さな、武器を持たない教会が目の敵にされたのか。ローマ皇帝を神として拝まなかったからです。主イエスのみを神、キリストとして礼拝していたからです。日々、共に礼拝を捧げていた家族、信仰の仲間が、捕らえられ、殺されて行く。明日は自分が捕らえられ、殺されるかもしれない。そのような過酷な現実と向き合いながら、主を礼拝していました。
ヨハネはアジア州にある7つの教会を牧会する伝道者でしたが、教会員から引き離され、地中海のパトモスという小さな島に流されました。その島で、主の日、僅かな者と礼拝をしている時に、神の幻を見たのです。神が生きて働いておられる神の現実を見たのです。それが黙示録の言葉となりました。
この朝、私どもが聴いた御言葉は、やがて来る新しい天と新しい地、神の国を、ヨハネが垣間見た場面です。
ヨハネは、神の国はさぞかし大きな神殿があるのだろうと思った。これまで地上を生きた大勢の人々が共に礼拝を捧げる神殿だからです。ところが、神の国には神殿は見当たらなかった。全能者である神、主と小羊とが神殿だからです。小羊とは、十字架につけられ、甦られ、生きておられる小羊キリストです。神、小羊キリストが、地上を生きた大勢の者たちが礼拝する霊の神殿となって下さる。
神の国は、もはや夜はない。灯の光も太陽の光も要らない。神の栄光が神の都を照らし、小羊キリストが都の明かりとなるからでる。
神と小羊キリストの玉座から命の水が溢れ出て、都の大通りの中央を流れる川となる。その川の両岸には命の木がある。一本の命の木が、両岸に根を張り、年に12回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒す。もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊キリストの玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。
②今、水曜日の聖書黙想・祈祷会で、創世記の黙想をしています。特に今、3章、4章のアダムとエバの物語、カインとアベルの物語を黙想しています。私ども人間の物語です。
神の都にある一本の命の木。明らかに、エデンの園の真ん中にあった命の木です。食べてはいけないと神と約束しながら、それを食べると神のようになれると誘惑されて、食べた命の木の実でした。命の木が呪いの木となってしまった。しかし、その呪いの木・十字架に、神の小羊・主イエスが立たれたことにより、呪いの木が命の木にされたのです。地上で争う諸国の民の死に至る病を癒すいのちの木となったのです。
主なる神は語られた。「人は独りでは生きられない。ふさわしい助け手を与えよう」。アダムにはエバ、カインにはアベルが与えられた。しかし、カインはふさわしい助け手である弟アベルを殺してしまった。人類最初の家族が崩れてしまった。何故、カインは弟アベルを殺したのか、自分が献げた供え物ではなく、弟アベルが献げた供え物を主が目を留められたからである。しかし、聖書はその理由を一切語らない。しかし、怒って顔を伏せたカインに、神は語りかけられた。「あなたが正しいことをしているのなら、顔を上げて生きなさい」。
私どもが生きるこの世の現実には、あの人はいつも神に顧みられている。それに対して、私は全く神に顧みられない。そのようにしか思えない不公平、不平等、不条理な現実がある。神が造られた世界でありながら、何故、そのような現実があるのか。その理由は分からない。しかし、神は語られる。たとえ不条理な現実であっても、あなたは正しいことをしているのなら、顔を上げて生きなさい。しかし、カインは不公平、不平等の現実に耐えきれずに、弟アベルを殺してしまった。共に生きる隣人を殺してしまった。
カインの兄弟殺しに心を留めたヨハネの手紙一は、こう語ります。「カインのようになってはなりません。・・きょうだいを憎む者は皆、人殺しです。人殺しは皆、その内に永遠の命をとどめていないことを、あなたがたは知っています」。
厳しい言葉です。有島武郎は『カインの末裔』を書き、私どものカインの心を宿していると語りました。心の中で芽生えた小さな妬みが怒りに膨れ上がり、憎しみに増大し、心の中で、「あいつさえいなければ」と心の殺人事件を起こす。私どももカインとなっている。創世記3章、4章は繰り返し語ります。神が造られた命の大地は、呪われた。実り豊かな大地が、共に生きるべき隣人の地で呪われてしまった。神の嘆きです。
これを受けて、黙示録は語るのです。「もはや呪われるべきものは何一つない」。何故なのか。神の小羊・主イエスが呪いの木・十字架にかかり、この大地に罪なき小羊の血を注いで下さったからです。呪いの木・十字架にかけられた神の小羊・主イエス・キリストが、甦って生きておられるからです。死に打ち勝ち、あらゆる悪の力に勝利されたからです。永遠の光となって下さったからです。
この神の現実、活けるキリストの現実を、今ここでの礼拝で仰ぎ見ながら、私どもは厳しいこの世の現実と向き合って行くのです。
5.①最後に、星野富弘さんの詩を紹介します。
「動ける人が動かないでいるのは 忍耐が必要だ
私のように動けない者が動けないでいるのに
忍耐が必要だろうか
そう気づいた時
私の体をギリギリに縛りつけていた
忍耐という棘の生えた縄が
“フッ”と解けたような気がした」。
ユーモラスな詩です。しかし、星野富弘さんがここまで導かれるまでには、長い忍耐の道のりがありました。運動することが大好きで、子どもたちと共に運動することに憧れて中学校の体育の先生になった。しかし、事故により、一生動けない現実と向き合わなければならなくなった。何故、こんな体になってしまったのか、不条理が現実を何度も呪った。しかし、活けるキリストと出会い、捕らえられることにより、神の現実を見るようになった。主イエス・キリストは甦って生きておられ、動けなくなった私にも働かれておられる。私を生かして下さる。私を神のために用いて下さる。
その時、私の体をギリギリ縛りつけていた、忍耐というつげの生えた縄が、「フッ」と解けたような気がした。「棘の生えた縄」。伝道者パウロが語る「死の棘」です。活ける主イエス・キリストによって、死と棘から解き放たれて、自由になった。自由の喜びを賛美しながら、口に筆をくわえ、詩を綴り、野の草花を描いて、神の生ける現実を、あなたにも伝えたいと思った。
お祈りいたします。
「この世の厳しい現実が私どもを圧迫し、生きようとする希望も忍耐も打ち砕くのです。甦られた主よ、打ち倒された私どもに、いのちの息を注いで下さい。ここに神が生きて働かれている神の現実を見させて下さい。甦られた主イエス・キリストによって垣間見る終末の望みを仰ぎ見ながら、高齢の者、病んでいる者、悲しんでいる者を看取るまなざしを与えて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
