「キリストがあなたがたの内に形づくられる」
エレミヤ書18章1~6節
ガラテヤの信徒への手紙4章12~20節
主日礼拝
井ノ川 勝 牧師
2025年11月16日
2025.11.16. 「キリストがあなたがたの内に形づくられる」
エレミヤ18:1~6,ガラテヤ4:12~20
1.①日々の生活の中で、誰もが悩むことがあります。私の言葉は家族、友人、職場の同僚、信仰の仲間に、果たして届いているのだろうか。私の言葉が相手に届かないと、そこに生きた交わりが生まれません。言葉が相手に届かないことで、誤解が生まれ、亀裂が生まれ、交わりが壊れてしまうことが起こります。一度、ひびが入った交わりを、元どおりにすることは大変なことです。あらゆる手段を用いて言葉を語っても、却って相手に通じないことが起こります。誰もが日々、悩み、苦しんでいることだと思います。
この朝、私どもが聴いた御言葉の中にも、このような叫びが語られていました。
「あなたがたのことで途方に暮れている」。
伝道者パウロが、ガラテヤの信徒に向かって上げている叫びです。この「途方に暮れている」という言葉は、「言葉が通じ合わない」「心と心とに橋が架からない」という意味です。伝道者は信徒に向かって、言葉を通して福音を語ります。ところが、伝道者が語る言葉が信徒の心に届かない。信徒の心に橋を架けられない。これは致命的なことです。何故、私が語る言葉が届かないのだろうか。何故、あの信徒に言葉が届かないのだろうか。伝道者パウロは途方に暮れ、叫んでいるのです。これは伝道者であれば、誰もが日々、味わっている切実な問題です。
②更に、伝道者パウロはこのようにも語っています。
「私は今、あなたがたのもとにいて、語調を変えて話せたらと思います」。
「語調を変えて話したい」。注目すべき言葉です。あなたがたに何とかして言葉を届けるためには、語調を変えてもよいと語るのです。
私も伝道者として、これまで何度も説教セミナーに出席し、説教の指導を受けて来ました。毎回、厳しい指導を受けました。説教の指導で指摘されることは、説教の内容です。聖書が語る福音をきちんと捉えて、言葉を整えて伝えているかです。説教の内容を変える。これは日々、訓練し、経験を積めば出来ることです。
しかし、更に受ける厳しい指導は、説教者であるあなたの存在が変わらなければ、言葉は信徒、求道者に伝わらない。説教者が自らの存在を変える。これは並大抵のことではありません。日々、伝道者として御言葉に打ち砕かれて生きているか。御言葉に慰められて生きているか。聖書に向かう姿勢、教会、信徒に向き合う姿勢。その一つ一つが変えられないと、説教者が語る言葉も変えられない。言葉は存在と一つに結び付いているかです。
伝道者パウロがここで語る、「語調を変えて話したい」。これは口先を変えることではありません。語り方を少し変えることではありません。伝道者としての私の存在を変えるということです。私の存在を変えてでも、あなた方に届く言葉を語りたい、というパウロの切実な思い、呻きです。
2.①「語調を変えて話したい」。この御言葉で想い起こすのは、井草教会の牧師であった小塩力牧師の「語調を変えて」という題の説教です。説教者の存在が響いて来る説教です。井草教会は戦後、小塩力牧師の開拓伝道で生まれた教会です。この説教は1955年11月に語られました。伝道者の悲痛な痛みから生まれた説教です。自分の説教を聴いていた青年二人が、相次いで命を絶った。伝道者は説教によって、くずおれた魂を慰め、立ち上がらせることが使命として託されている。ところが、自分が語る言葉が青年に届かず、自死に至らせてしまった。呻きながら語っています。
「わたくしの説教をまじめにきいてくれた青年で、3年前、2年間と、いずれも、猛暑の頃であったが、みずから生命を断ったひとがある。それぞれの、素因や、病気の工合や、書きのこしたものなどによって理由をさぐろうとしても、おぼろにしかわからない。また、おそらく、どんな個人的、社会的理由があろうとも、死の直前の精神状態をどれだけこまかくさぐろうとも、一つの魂の孤独の深さと、現実によってひきさかれている魂の裂け目の痛さとは、生きのびている我々に触れることを得しめない。我々は首をたれて、『主よ、憐れみたまえ!』、『キリストよ憐れみたまえ!』と祈るほかはない。夜のつねの、外面の操作を、でくのようになし得るのみであろう。ただ、もし私のような醜い存在でも、いつも彼らと共に在って、キリストの臨在を指し、死神のよぶ声にさからうかげとなりえたのだったら、とおもう。その人の運命のために、その程度のはかなさしかないことだけれども、時と所とを『共に』できるのだったら。伝道者の、せめてもの願い、せめてもの努力は、こんなところに必要とされるのではあるまいか」。
伝道者が悔い改めながら、主よ、憐れみたまえと祈りながら、言葉を紡いでいます。何故、私が死神の呼ぶ声に逆らう影となり得なかったのか。生けるキリストが私の許に来なさいと呼んでおられる、キリストの声を指し示すことが出来なかったのか。小塩牧師は呻きつつ、伝道者パウロのこの叫びに声を合わせるのです。「語調を変えて話したい」。主よ、伝道者である私の存在を変えて下さい。悩み、苦しんでいる魂に、届く言葉を語らせて下さい。
②私も伝道者42年の歩みを振り返る時に、後悔と懺悔の連続です。伊勢の教会で伝道していた時、鬱病の女性が熱心に求道生活を続け、洗礼を受けました。喜んで主の御足の跡を踏み従う信仰生活を送られました。しかし、数年後、鬱病が悪化しました。しばらく礼拝に来られませんでした。ところが、久しぶりに、水曜日の祈祷会に出席をされました。大分、やつれた顔をされていました。聖書の御言葉を聴き、祈りを捧げ、帰る後ろ姿が寂しそうに肩を落としていました。私が語る御言葉が届かなかったのだと思いました。それからしばらくして、自らの手で命を断たれました。
自らが語る御言葉を聴く信徒が、自らの手で命を断つ。衝撃的なことです。懺悔と後悔ばかりです。ひたすら、主よ、憐れみ給えと祈るのみでした。説教、聖書研究・祈祷会で語る御言葉に、この続きは来週に、ということはありません。一回一回の説教、御言葉の説き明かしが、一期一会であると深く心に刻みました。この御言葉こそ、あなたが人生最後に聴く御言葉になるかもしれない。そのような姿勢で御言葉を、一回一回語っているのか。伝道者がいつも問われていることです。そこで、伝道者パウロの呻きを共有するのです。「語調を変えて話したい」。
3.①伝道者パウロとガラテヤの教会の信徒たちは、最初から言葉が通い合わなかったのではありません。元々、ガラテヤの教会は、パウロの伝道によって生まれた教会です。ガラテヤの地で、パウロが福音を告げ知らせた時、パウロは病を抱えていました。しかもその病は、人々の躓きとなるような目に見える形の病であったようです。どんな病を抱えていたのでしょうか。パウロはこのような言葉を語っています。
「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも私に与えようとしたのです」。
この言葉から、パウロは目の病気をしていたのではないかと考えられます。
人々がどきっとするような目の病を抱えていた。もう一つは、パウロはてんかんの病を抱えていた。しばしば人々の前で発作が起き、倒れることがあったとも言われています。
しかし、ガラテヤの人たちは、パウロを蔑んだり、忌み嫌ったりしなかった。却って、パウロを神から遣わされた天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれました。伝道者パウロが語る言葉を、天使が語る言葉のように、主イエス・キリストが語る言葉のように受け入れてくれた。それ故、ガラテヤの教会が生まれたのです。
それなのに、今は何故、言葉が通い合わなくなったのでしょうか。心と心とに橋が架からない関係になってしまったのでしょうか。ガラテヤの教会に、パウロが語った福音とは異なる福音を語る者たちが入り込んでしまったからです。立つべき福音から逸れてしまった。それは教会の危機です。キリストの教会が土台から崩れてしまう危険性にあります。
それ故、パウロはこの手紙において、自分の感情を包み隠さず、怒りを爆発させながら、自分の存在を懸けて、言葉を語っています。相手に言葉が通じないのであれば、語調を変えてでも、自分を変えてまでも話したいとまで語るのです。
②伝道者パウロが語調を変えてまで語りたいと言っているのは、何のためなのでしょうか。全てはこの言葉に集中しています。
「私の子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。
敵対し、言葉も心も通い合わないガラテヤの信徒に向かって、「私の子どもたち」と、母親のように呼びかけます。私はわが子を胎内に宿した母のように、生みの苦しみをしていると言うのです。キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私はもう一度、あなたがたを産もうと苦しんでいる。
吉祥寺教会の竹森満佐一牧師が、この御言葉を説教しています。大変、印象深い言葉で説教しています。
パウロがこの手紙で語っている、この言葉に注目します。2章19,20節。
「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」。
私どもがキリストと出会い、キリストに捕らえられ、洗礼を受け、救われることは、生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられるのだと語ります。そして竹森牧師はこう語ります。
「しかし、自分のいのちは、あるいは自分の生涯の全部はキリストに託しているということ、それがないと信仰の生活というのは、どうしても中途半端になるだろうと思うんです。そこで、この伝道者は、私は産みの苦しみをしている。またもや、産みの苦しみをしている。いっぺん産みの苦しみを君たちのためにしたんだ。そして、君たちのうちにキリストが誕生した。だけど、それをもういっぺん今繰り返そうとしている。なぜかと言うと、君たちのうちに生まれたと思ったキリストは、死んじゃったじゃないかという意味だと思います」。
竹森牧師はあからさまに語ります。パウロが語った福音によって、あなたがたの内にキリストが誕生した。キリストがあなたがたの内に生きておられる。ところが、あなたがたが異なった福音に心を寄せたことにより、キリストは死んじゃったじゃないか。だからパウロはもう一度、語調を変えて御言葉を語ることにより、あなたがたの内に再びキリストが誕生するように、産みの苦しみをしているのだ。
キリストがあなたがたの内に形づくられるために、もう一度産みの苦しみをしている。出産の譬えを用いて、パウロは語ります。新しい命が誕生するためには、産みの苦しみが伴う。しかし、産みの苦しみの先には、新しい命が誕生する。新しい命の誕生を待ち望みながら、産みの苦しみに必死に耐える。
パウロはロマ書8章でも、「産みの苦しみ」を語っています。
「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。・・つまり、体が贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます」。
「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです」。
産みの苦しみをしているのは、私どもだけではない。聖霊も私どもの傍らにあって、言葉に表せない切なる呻きをもって、産みの苦しみをして執り成して下さるのです。
4.①「キリストがあなたがたの内に形づくられる」。どういうことなのでしょうか。私どもが捧げる礼拝の中心に、生けるキリストが生きておられることです。私どもの教会の交わりの中心に、生けるキリストが生きておられることです。礼拝に身を置いた時に、教会の交わりに入った時に、ああ、ここに生けるキリストが生きておられると実感するのです。その時、キリストがあなたがたの内に形づくられているのです。しばしば「教会形成」という言葉を用います。それは私どもの内に、キリストが形づくられることです。
伝道者パウロは他の手紙でこう語っています。コリント一14章24~25節。
「しかし、皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者が入って来たら、その人は皆から問いただされ、皆から批判されて、心の秘密が暴かれ、そのあげく、ひれ伏して神を拝み、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と言い表すことになるでしょう」。
②先週の13日(木)、深谷松男長老の記念会が行われました。長男の格さんも京都から出席されました。22名の教会員が出席されました。8月30日、92歳で逝去され、京都の室町教会で葬儀が行われました。金沢教会を母教会のように愛され、長老として長く奉仕をされました。金沢大学の法学部の教授でもありました。教会がどんなに厳しい試練に直面しても、牧師が代わっても、長老が代わっても、私どもの内にキリストが形づくられる教会形成に力を注がれました。特に、日本の教会は法的基盤が弱いので、法的基盤を整えた教会形成を強調されました。
教会は「デモクラシー」ではありません。民衆が支配するのではありません。教会は「クリストクラシー」です。キリストが支配される交わりです。牧師が支配するのでもなく、有力な長老、信徒が支配するのでもありません。教会がキリストが支配する教会となるためには、何が必要なのでしょうか。聖書を土台とし、その上に三つの柱が必要です。信仰告白、礼拝指針、教会規則です。金沢教会の『教会員手帖』には、この三つの柱が全て盛り込まれています。金沢教会が土台としている「信仰告白」、どのような信仰に教会が立っているのか。「礼拝指針」、どのような礼拝順序で、神を礼拝しているのか。「教会規則」、金沢教会がどのような制度、組織で教会形成をしているのか。長老会で検討したものですが、その中心となってとりまとめたのが、深谷長老でした。
私どもの礼拝と交わりを通して、まことに、ここにキリストがおられると共に賛美し、信仰を告白し、キリストが御支配する制度、組織を整えて行く。キリストの主権に、喜んで服し、奉仕し、神に栄光を現して行くキリストの教会となる。それこそが、私どもの内にキリストが形づくられることです。
深谷長老が90歳になられた時、「恩寵90年」という詩を綴られました。90年に亘る人生の歩みにおいて、神が与えて下さった恵みを一つ一つ数え上げています。そして、最後をこのような言葉で結んでいます。
「顧みるに、教会の長老として60年余。
また多年、教団、東神大、聖書協会に与る。
不治の病に真向かいつつ見上げるとき 迷いと欠けある歩みながら
これすべて慈愛の主の御召しと御恩寵によるもの。
老境にありて、病む妻との日々のすべてを主の恵みと感謝しつつ
遙かに天のふるさとを望む。主よ、憐れみたまえ。
頌栄」。
格さんがこの詩を紹介し、解説して下さいました。文章の結びが、父の信仰を表している。「主よ、憐れみたまえ」と、自らの罪を悔い改めつつ、最後は「頌栄」、神を賛美し、神に栄光を帰し、神に委ねて、地上の人生を結ぼうとしている。
改めて、深谷長老の金沢教会での奉仕を振り返る時、全ては伝道者パウロのこの御言葉のためにあったと思わされます。私どももその跡を続くのです。
「私の子どもたち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。
お祈りいたします。
「言葉が通じ合わず、心が通い合わず、苦しみ、呻く私どもです。しかし、誰よりも主イエス・キリスト御自身が、聖霊自らが、切なる呻きをもって私どもを執り成しておられるのです。教会の交わりの中心に、生けるキリストよ、立って下さい。私どもの驕り高ぶりを打ち砕いて下さい。私どもの内に、キリストが形づくられるために、御霊と御言葉によって導いて下さい。教会の頭である主の御支配に、喜んで服し、奉仕する者とさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
