「互いに罪を告白し、祈り」
列王記上 18章41~46節
ヤコブの手紙 5章12~20節
「主日礼拝」
井ノ川 勝 牧師
2026年9月27日
2026.9.27. 「互いに罪を告白し、祈り」
列王記上18:41~46,ヤコブ5:12~20
1.①今から54年前、1972年。当時の世界も、日本も、様々な深刻な問題を抱えていました。将来への希望が見えず、もやもやと闇に覆われていました。そのような中で、三名のキリスト者が対談、鼎談をしました。神学者の加藤常昭、古屋安雄、哲学者の森有正です。その鼎談の本の名前は、『現代のアレオパゴス』。アレオパゴスというのは、使徒言行録17章で語られていますが、アテネの町にある小高い丘の上にあるアレオパゴスという評議場、広場です。そこで伝道者パウロはギリシア人に向かって、哲学者に向かって、生けるキリストを伝えました。それと同じように、現代日本において、日本人に向かって、生けるキリストをいかに伝えるのか、三名のキリスト者が鼎談をしました。
その中で、森有正がこう述べています。教会はこの世界の中で、祈りの共同体として存在している。私が祈れない時に、私のために祈っている教会員が必ずいる。そのようにして私の信仰は支えられて来た。教会は他者のために、世界のために、執り成しの祈りに生きる。執り成しの祈りとは、誰かのために、誰かに代わって祈ることです。そこに祈りの共同体として、この世界に存在する教会の使命があります。
②この朝、私どもが聴いた御言葉は、ヤコブの手紙の結びの御言葉です。ヤコブの手紙は牧会書簡です。伝道者ヤコブは説教者であり、牧会者です。牧会の中心は何か。それは「祈り」であると、ヤコブは語ります。ヤコブはここで、三つのことを勧めています。
「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」。
今、主の御前に立ち、主を礼拝しながらも、私どもの心の中で覚えていることは、苦しんでいる人、病気の人がいることです。苦しみや病気を抱えながら、礼拝に出席された方もいます。苦しみや病気のため、礼拝に出席出来ない方もいます。そのような一人一人と私どもはどのように向き合うのか、主を礼拝しながら、御言葉を聴きながら、いつも問われていることです。
2.①苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は賛美の歌を歌いなさい。病気の人は長老たちを招き、祈ってもらいなさい。このような勧めを聞くと、私どもは答えます。苦しみに直面すれば、祈ることが出来ない。病に罹れば、祈ることが出来ない。目の前の苦しみ、病の現実に、心が向き、神に心を向けることが出来なくなる。喜びの時も、喜びに浸って、神さまを賛美することを忘れてしまう。
「苦しみ」と聞きますと、私どもは大きな苦しみ、重い苦しみ、なかなか解決出来ない苦しみだと受け止めます。しかし、この「苦しみ」は、私どもが毎日、経験する不機嫌という意味も含まれています。私どもは毎日、機嫌が良かったり、不機嫌になったり、感情が右往左往します。機嫌良く一日を始めても、ある方が語ったひと言で、不機嫌になります。その日は不機嫌の霊に取り憑かれ、仕事に集中出来なくなります。人に八つ当たりします。接する一人一人に怒りっぽくなります。いらいらします。ぶつぶつと呟いてばかりいます。自分自身で受け留め切れず、あいつが悪いんだと他人のせいにします。不機嫌な時、神さまを忘れています。機嫌の良い時も、神さまを忘れています。
説教者は土曜日、説教の準備をします。混沌状態になると、不機嫌になります。ぶつぶつと呟いてばかりいます。しかし、そこで自問自答します。主の日、説教者が語る御言葉は、福音、喜びの知らせではないか。不機嫌な顔で、ぶつぶつ呟く言葉から、福音、喜びの知らせが生まれるだろうか。そこでも生ける神がおられることを忘れているのです。
そのような時に、礼拝堂から主の日の礼拝の準備をしている奏楽者のオルガンの音色が聞こえて来ます。礼拝で歌う讃美歌の曲が聞こえて来ます。いつの間にか讃美歌を口ずさんでいます。福音、喜びの知らせは、不機嫌な顔をして、呟いている説教者の中から生まれるのではない。外から、神から福音、喜びの知らせが与えられることを経験します。祈りと賛美も同じです。祈りと賛美は、私どもの内から生まれるのではありません。私どもの外から、神から与えられるのです。
②ここで注意をしていただきたいのです。伝道者ヤコブは、「苦しんでいる人は、祈りなさい」とは語っていません。「あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい」。「あなたがたの中に」と語ります。教会の交わりの中に生きる人です。教会の交わりの中に苦しんでいる人がいる。苦しみの中にうずくまって、祈ることが出来ない。心が神に向かない方がいる。その時、信仰の仲間が訪ねて、その方に代わって祈りなさい。その方に代わって讃美歌を歌いなさい。そういう意味が込められています。祈れない友の傍らで、私どもが代わって祈るのです。神をほめたたえることの出来ない友の傍らで、私どもが代わって讃美歌を歌うのです。
苦しみに直面し、うずくまり、礼拝から遠のいている信仰の友がいます。私どもは声をかけます。礼拝に出席しよう。共に祈り、讃美歌を歌おうと。礼拝の中に身を置くと、信仰の仲間の祈りが聞こえて来ます。信仰の仲間の讃美歌の歌声が聞こえて来ます。信仰の仲間の祈りと讃美歌の歌声が、こわばった心を包み込み、心の中に響いて行く。いつの間にか、心を神さまへ向けて、共に祈り、讃美歌を口ずさむようになっています。祈りと賛美の交わりに身を置くことで、こわばった心が溶かされて行くのです。祈りと賛美が私どもの歩みを導くリズムとなるのです。主の日の朝、礼拝に身を置くことが、信仰の仲間の祈りと賛美に身を置くことが、いかに大切なことか示されているのです。
3.①今日の御言葉で注目すべきは、この御言葉です。
「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」。
病気の中で、祈れない信仰の仲間がいます。その時どうしたらよいのか。教会の長老たちを招いて祈ってもらいなさい。長老の務めの最も大切なことは、訪問して祈ることです。信仰の仲間のために祈ることです。その時、主の名によってオリーブ油を塗りました。
主イエスが12人の弟子たちを初めて伝道に遣わされた時、弟子たちは一軒一軒の家を訪ねて、御言葉を語り、悪霊を追い出し、油を塗って病人を癒やしました。マルコ6・12~13.
病気の癒しのために、オリーブ油が用いられました。オリーブ油そのものに癒しの力があるのではありません。主の名によってオリーブ油を塗りました。主の名に癒しの力がある。生ける主イエス・キリストの力が働いたのです。今日、私どもはオリーブ油を用いて、癒しをすることはありません。しかし、ある方は語ります。当時、オリーブ油は癒しを象徴するしるしであった。今日で言えば、医療です。医療と祈りは本来、一つに結び付いているのです。
私どもは医療の力を信じ、病気の治療を受けます。しかし同時に、医師、看護師、病人のために祈ります。病気の癒しという重大な医療行為に、生ける神の御手が働きますように。治療し、手術を執刀する医師、看護師の手を、生ける神の御手が働きますように。医療と祈りが一つにされる。病気の癒しは体と心が一つに結び付いているからです。しかし、今日残念なことは、日本においては、医療と祈りが分断していることです。
②牧会者ヤコブは語ります。
「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます」。
信仰による祈りには癒す力がある。主イエス・キリストがここに生きて働かれている。キリストへの信頼の祈りには癒す力がある。それ故、医療の力を信頼し、同時に、主イエス・キリストの生ける力により癒されることを祈ります。信仰による祈りには力がある。その具体的な例として挙げられているのが、ヨブの忍耐とエリヤの祈りです。
ヨブは財産を失い、わが子を全て失い、自らの健康を失います。自分が手にしていた大切なものを全て失いました。ヨブは上着を引き裂き、頭をそり、地に身を投げ出しました。ヨブの妻は語りました。「神を呪って死んでしまいなさい」。しかし、ヨブは神に向かって祈った。
「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように」。
しかし、ヨブの祈りはそこで終わっていない。神に激しく詰め寄り、胸ぐらを掴み、何故なのか、何故なのかと、必死にくらいつきながら祈り続けます。ヨブの友人たちがやって来て、ヨブの苦しみの原因を突き止めるために、理論的に苦しみの意味を説明します。しかし、ヨブにとってはそんな苦しみの原因探し、説明など、全く慰めにもならないし、力にもならない。ヨブが友人に求めたものは、一緒になって、神に食らいつき、何故、何故、何故と祈り求めることでした。ヨブは苦しみの中で忍耐強く、神に食らいつき、祈り求めました。しかし同時に、祈りの中で、ヨブは神に対して暴言を吐き、罪を犯しています。
エリヤは、バアルの神、アシェラの神を拝むアハブ王と、祈りをもって戦いました。エリヤが熱心に祈ると、3年6か月に亘り、地上に雨が降りませんでした。人々は干ばつに苦しんだ。しかし、エリヤ再び祈ると、天は雨を降らせ、大地は実りをもたらしました。義人の祈りには力があると言われています。しかし、エリヤは義人ではありませんでした。アハブ王、イゼベル妃に殺されそうになり、荒れ野を逃げ惑います。「主よ、もう十分です。私の命を取り去って下さい。私は先祖に優った信仰などないのですから」と叫びました。
ヨブも、エリヤも、立派な信仰者ではなく、破れ果てた信仰者です。しかし、破れ果てた信仰者が主に向かって、忍耐強く、必死になって祈り求めたのです。その祈りを神は聴かれ、生きて働かれたのです。どんなに破れ果てた祈りであっても、その祈りを聴かれる神がおられるから、生ける神の御業が働かれるのです。
4.①長老たちが招かれ、病人に主の名によってオリーブの油を塗り、祈りを捧げた。ローマ・カトリック教会は、この油を、死んだ人の体に塗る終油と捉え、サクラメントとして重んじます。しかし、私どもプロテスタント教会はそのようには理解しません。ある方は語ります。この油は洗礼と聖餐というサクラメントを意味する。病床洗礼、病床聖餐です。礼拝に出席出来ない方を牧師、長老たちが訪問し、水と霊によって洗礼を授けます。パンとぶどう汁を通し、キリストの命に預かります。生けるキリストの御業が病人に働き、生きる時も死ぬ時も、キリストと結ばれた者とされます。
宗教改革者ルターは、全ての信徒が祭司であると語りました。祭司であるということは、執り成し手であるということです。牧師、長老だけでなく、全ての信徒が執り成し手として祈り、奉仕をするのです。
ルターは教会がキリストの教会として立つためには、四つのものが欠くことが出来ないと語りました。説教、洗礼、聖餐、そして、兄弟姉妹の相互の対話と慰めです。兄弟姉妹相互の祈りと慰めとも言えます。
説教の冒頭で紹介した加藤常昭牧師が神学校を卒業し、若草教会の初代牧師として遣わされました。若草教会時代に訳された本があります。トウルンアイゼンの『牧会学』です。今日まで読み継がれている牧会の教科書です。トウルンアイゼンは改革派の牧師ですが、全ての信徒が祭司である。執り成し手であることを重んじます。牧会はマン・ツー・マン、一対一である。マン・ツー・マンという言葉は、バスケットボールで使います。攻撃する一人一人に、守備をする一人一人がついて、ボールを奪う作戦です。それと同じように、牧会も信徒一人が一人と対話し、祈り、キリストの慰めを伝える。
金沢教会も、牧師、長老、執事、地区委員だけでなく、信徒一人一人が、信徒、求道者一人一人と向き合い、祈り、キリストの慰めを伝える。礼拝後の対話において、日常生活の対話において、電話、メールにおいて、お互いが悩みを聴き合い、助言し、祈り合って行く。マン・ツー・マンの交わりが、あそこにもあり、ここにもある。信徒一人一人が執り成し手、牧会者、魂への配慮をする者となる。その中心にあるのは、主イエスの執り成しです。
私どもは日々、日常会話において、言葉で罪を犯します。日常生活の振る舞いで人を躓かせます。心の内面においても、神を軽んじます。それ故、私どもは信徒一人一人の牧会的な対話の中で、互いに罪を告白し、祈り合うのです。
②本日礼拝後、金沢教会で生まれ育った深谷格長老が信徒セミナーで、「聖書と憲法が語る平和」という主題で講演をされます。私どもはこの日を祈りながら楽しみにしていました。
格さんが幼稚園児の頃、深谷松男長老夫妻に長女が誕生しました。しかし、格さんのお母さまは出産直後、体調を崩され、亡くなられました。幼い二人の子どもを抱え、大学でのお仕事、教会での長老としての奉仕、子育てと、大変な厳しい日々でした。しかし、深谷長老のご家族を、上河原雄吉夫妻、長老会、教会員一人一人が神の家族として、祈り、支えました。祈りの共同体としての教会の祈りが格さんを支え、育てて来られました。その格さんが金沢教会の信徒セミナーで、講演の御奉仕をされる。私どももその講演から信仰の学びをする。ここにも祈りの共同体としての教会の姿があります。
5.①カトリックの信仰に生きた作家・曾野綾子さんが、作詞をされ、それに曲を付け、合唱団が歌った詩があります。その中に、こういう詩があります。
「あなたは私たちが求めたことを 何一つ与えなかった。
しかし、私たちが必要とした神の慈しみは、主よ、あなたはすべてをお与えになった」。
星野富弘さんの詩にも同じような詩があります。「当てはずれ」という題の詩です。ツルバラの赤い花が描かれています
「あなたは私が 考えていたような方ではなかった。
あなたは私が 想っていたほうからは来なかった。
私が 願ったようにはしてくれなかった。
しかしあなたは 私が望んだ何倍ものことをして下さっていた」。
しかし。曾野綾子さんのこの詩は、イタリアのトリノの町にある無名戦士の墓碑銘に刻まれた言葉でありました。親にとっての祈りと願いは、戦争に行ったわが子が無事に帰って来ることです。妻にとっての祈りと願いは、戦争に行った愛する夫が無事に帰ることです。しかし、遺体さえも戻らなかったという悲しみと嘆きが溢れる詩です。
しかし、そのような悲しみと嘆きの旋律が流れる中で、「神の小羊」という合唱が繰り返し歌われます。ミサでも歌われる祈りの歌です。
「神の小羊、世の罪を取り除いてくださる主よ、
私たちを憐れんでください。
神の小羊、世の罪を取り除いてくださる主よ、
私たちを憐れんでください。
神の小羊、世の罪を取り除いてくださる主よ、
私たちに平安を与えてください」。
私どものために十字架に架かり、甦って、天に座しておられる生ける主イエス・キリストが、私どものために執り成しておられるのです。私ども一人一人のために、執り成し祈られておられるのです。われらの主イエス・キリストの執り成しの中で、私どもは主に向かって、この祈りを捧げるのです。
「神の小羊、世の罪を取り除いてくださる主よ、
私たちを憐れんでください。
神の小羊、世の罪を取り除いてくださる主よ、
私たちに平安を与えてください」。
お祈りいたします。
「日々の会話において、日々の振る舞いにおいて、罪を犯す私どもです。神をないがしろにする私どもです。神の小羊、主よ、私どもを憐れんで下さい。主によって祈りの群れに加えられた私ども一人一人が、信仰の仲間と向きあい、慰めの対話をし、祈り合う交わりに生きることが出来ますように。罪人の群れである私どもの教会を、主の執り成しによって、祈りの共同体へとして下さい。苦しんでいる者、病んでいる者に、祈りを届けさせて下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
