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「先回りされる復活の主イエス」

詩編 16編1~11節
マルコによる福音書 16章1~8節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年4月5日

00:00 / 31:46

2026.4.5. 「先回りされる復活の主イエス」

      詩編16:1~11,マルコ16:1~8


1.①新年度を迎えました。皆さんの中にも、新たに高校生になられた方、大学生になられた方、社会人になられた方がいます。また、新しい地で、新しい生活を始められた方もいます。一人一人が新たな志を抱いて、希望を抱いて、新たな一歩を踏み出されたことでしょう。しかし、私どもの歩みはいつも順調であるとは限りません。思い掛けない試練に直面し、大きな壁にぶち当たり、立ち往生してしまうことがあります。挫折して、なかなか立ち直れないことがあります。自分が描いていた道が閉ざされてしまうことがあります。一体これからどの道を歩んだらよいのか、途方に暮れることがあります。

 先々週、中島眞さんの葬儀を、この礼拝堂で行いました。祖父母も、両親も金沢教会の信徒で、三代目のキリスト者であり、医師でした。また、先週は石川地区で長く、親しく交わりをして来ました金沢南部教会の大隅啓三牧師が逝去されたとの知らせを受けました。私どもが歩んでいる人生の道の前方には、必ず死が待ち受けています。自分が描いていた人生の道も、将来の道も、死によって突然、中断させられることが起こります。道が突然閉ざされてしまいます。

 私どもが歩んでいる世界の将来の道も、一体どうなるのか。混乱と不安の中で、先が見通せない状況に置かれています。

 

そのような中で、今朝、私どもは、主イエス・キリストが甦られたイースターを迎えました。世界中の教会が喜びの朝を迎えました。子どもたちも、私どもも、春の訪れと共に迎える復活祭は、大きな喜びに包まれます。ところが、一番初めのイースター、主イエス・キリストが甦られた出来事に触れた人々は、大いなる喜びに包まれたのではありませんでした。震え上がり、正気を失う程、恐ろしかった。言葉が出ない程、恐ろしかったのです。これこそが、主イエス・キリストの甦りの出来事に触れた時の、率直な感情でありました。

 日曜日の朝早く、三人の女性が主イエスの墓へ向かいました。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメでした。ところが、主イエスの墓の前に来ると、驚くべきことがありました。十字架で死なれた主イエスのご遺体が納められていた墓の入り口の大きな石が、ごろんと転がっていました。しかも更に驚くべきことがありました。墓の中は空っぽでした。主イエスのご遺体はありませんでした。そこに白い衣を着た若者が立っていました。主の御使いです。主の御使いは、ひどく驚く女たちに向かって語りました。

「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所した場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」。

 女たちは、墓を出て逃げ去りました。震え上がり、正気を失った。恐ろしさに捕らえられ、誰にも何も言わなかった。

主イエスが甦られ生きておられる出来事に触れた最初の人々にとって、それは喜びではなく、恐れでした。死んだ人間が甦られたからです。しかも病気で死んだのではありません。事故で亡くなったのでもない。十字架につけられて殺された。十字架は神から呪われ、神から審かれ、神から見捨てられることです。恐ろしい死を死なれたのです。そのような恐ろしい死を遂げられた主イエスが甦られ生きておられることは、喜びではなく、恐ろしいことであったのです。しかし、恐ろしいとは、恐怖の恐ろしさではなく、聖なる神の御臨在に触れる畏怖です。畏れかしこむこと。背筋がぴんとさせられる畏しさです。それが女たちの畏れでした。

マルコ福音書は、元々ここで結ばれていたと言われます。最後の言葉が、「恐ろしかったからである」で結ばれています。余りにも唐突な終わり方です。それ故、後の教会が9節以下の御言葉を書き加えたと言われています。何故、マルコはこのような唐突な終わり方をしたのでしょうか。甦られた主イエスも登場していません。甦られた主イエスが女性たちに、弟子たちに出会われた出来事も記されていません。一体、何故なのでしょうか。そこに著者マルコに意図があります。マルコ福音書が私ども一人一人に問いかけていることでもあります。そのことは後で触れますので、皆さんも説教を聴きながら考えていただければと願っています。

 

2.①マルコ福音書には、甦られた主イエスは登場していません。しかし、甦られた主イエスから託された主の御使いの言葉が、墓を訪ねた女たちに語られています。この御言葉が重要です。ここで二つの重要なことが語られています。一つは、「主イエスは復活なさって、ここにはおられない」。主イエスは死に打ち勝ち、甦って生きておられる。これこそが、イースターに、私どもに伝えられた、喜びの知らせ、福音です。主イエスは甦って、生きておられる。

 それでは、甦られた主イエスとお会いするためには、どうすればよいのか。どこへ行けばよいのかです。それがもう一つの主の御使いの言葉で語られていることです。

「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」。

この御言葉は、主イエスが語られた御言葉です。どこで、誰に向かって語られた御言葉でしょうか。

 主イエスが十字架につけられる前夜、主イエスは弟子たちと最後の晩餐を行われました。食事の後、主イエスは弟子たちと共に、夜道を賛美の歌を歌いながらオリーブ山へ向かいました。ゲツセマネの園で、夜を徹して祈るためでした。その途中、主イエスは弟子たちに語られました。

「あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

それに対して、ペトロは答えた。

「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」。

主イエスは語られた。

「よく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。

ペトロは答えた。

「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」。

主イエスはペトロに向かって、あなたは私を裏切ると予告した。ペトロは私だけは最後まであなたに従いますと豪語しました。この時、主イエスはペトロに向かって、この言葉を語られていたのです。

「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

「先に行く」という言葉は一つの言葉です。「先回りする」という意味です。ペトロは主イエスを三度知らないと否み、裏切り、見捨て、どこへ向かうのか。ガリラヤです。ペトロの故郷です。生まれ育った町です。失意の帰郷です。挫折して帰る所はそこしかない。再び漁師に戻り、一から人生をやり直そうとした。生きる姿勢を立て直そうとした。しかし、すぐにまた挫折してしまう。漁師に戻ってもうまく行かない。

 しかし、甦られた主イエスは先回りしてガリラヤへ行き、失意の中で帰郷するペトロと出会い、迎えて下さるのです。そこでもう一度、ペトロを弟子として召して下さるのです。

 私どもが挫折し、行き詰まり、失意の中で、歩むべき道が閉ざされ、道が見えなくなってしまった時、甦られた主イエスは先回りして、私どもを迎えて下さるのです。先回りして私どもを受け止め、私どもを立ち直らせて下さるのです。

 キリスト者であり哲学者であった森有正が語った言葉があります。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心のひと隅というものがあります。そこでしか、神さまにお目にかかる場所は人間にはない。人間が誰はばからず喋ることの出来る観念や思想や道徳や、そういうところでは人間は、誰も神さまに会うことはできない。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず自分だけで悩んでいる。恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことができない」。

 甦られた主イエスが先回りして、私どもと出会って下さるとは、将に森有正が言うことと重なり合います。

 

甦られた主イエスから託された言葉を主の御使いは、主イエスの墓を訪ねた女たちに語りました。その中で、注目すべき言葉があります。

「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。

元の言葉はこうです。

「さあ、行って、弟子たちに伝えなさい。そしてペトロにも」。

主イエスは甦って生きておられる。さあ、女たちを、この喜びの知らせを弟子たちに伝えなさい。ああ、それからペトロにも。「そしてペトロにも」。小さな言葉です。最後に加えられた言葉です。しかし、この小さな言葉に、主イエスのペトロに対する愛が込められています。私だけが最後まであなたに従いますと豪語しながら、真っ先に主イエスを見捨て、裏切り、逃げ去ったペトロ。しかし、そのようなペトロにも、この知らせを伝えてほしい。主イエスは甦って生きておられる。あなたよりも先回りして、ガリラヤであなたを迎える。ガリラヤで再びあなたにお会いする。

 「そしてペトロにも」。この言葉に、私どもは自分の名前を重ね合わせます。私どももペトロだからです。

「さあ、行って、弟子たちに告げなさい。そして勝にも」。

 甦られた主イエスが逃げ去った弟子たちとお会いする所は、故郷ガリラヤです。それでは私どもにとってのガリラヤとはどこでしょうか。皆さんの故郷、金沢です。皆さんの生活の原点です。生活の只中です。そこで甦られた主イエスは、あなたと出会って下さるのです。先回りしてあなたとお会いして下さるのです。

 

3.①「女たちは震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 マルコ福音書の結びの言葉です。甦られた主イエスは登場しておられない。甦られた主イエスと出会った物語も語られない。「恐ろしかったからである」という結ばれる唐突な終わり方です。何故、マルコはこのような結び方をしたのでしょうか。マルコ福音書は最初に生まれた福音書です。主イエスの伝記ではありません。主イエスの偉人物語でもありません。この世界に初めて、「福音書」という文学が生まれたのです。画期的なことです。「福音」という言葉は、「喜びの知らせ」です。そして主イエスご自身が、「福音」「喜びの知らせ」です。それ故、マルコ福音書はこういう言葉から始まりました。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」。

神の子イエス・キリストという福音、喜びの知らせが始まった。その結びが「恐ろしかったからである」。この唐突に終わった結びの言葉は、振り出しに戻るのです。神の子イエス・キリストという福音、喜びの知らせの物語が始まった。マルコ福音書は、ガリラヤで主イエスが福音、喜びの知らせを語り始めることから始まります。そこでペトロを始め、漁師たちを、「私に従いなさい」と主の弟子に召すのです。ガリラヤで、甦られた主イエスと逃げ去った弟子たちとの新しい出会いの物語が始まるのです。そしてこの福音書に触れる私どもにも、甦られた主イエスと私どもとの出会いが起こるのです。先回りして私どもに出会って下さる甦られた主イエスと私どもとの新しい出会いの物語、福音の物語が始まるのです。

 

本日のイースター礼拝で洗礼を受けられたのは、柚木賢さんです。先々週、葬儀を行いました中島家、そして柚木家は、代々金沢教会で信仰が受け継がれて来た家系です。金沢教会と切っても切れないキリストによって結ばれている家系です。柚木家のお墓は金沢教会のお墓の隣りにあります。柚木家のお墓の横に、金沢教会のお墓が建てられたのです。柚木家との関係を大切にするためです。柚木賢さんのお母さま千鶴さんが、礼拝に出席された後、私に必ず語る言葉がありました。柚木家の信仰の家系は私で途絶えてしまう。いつもそのことを心配していました。しかし、甦られた主イエスが先回りして、息子さんの賢さんと出会われ、捕らえて下さったのです。

 皆さんもイースターには様々な想い出があると思います。私にも想い出があります。その一つに、大学生の時、イースター礼拝で、お母さんと中学生の娘さんが洗礼を受けられました。中学生の娘さんは神の御前で洗礼を受けることで、緊張し、座り込んでしまいました。神への畏敬を感じたのだと思います。洗礼を受けられた後、お母さんが教会の会報に、文章を綴られました。幼い時、息子さんを親の過失で亡くされました。ずっと自分たちを責め続けて来た。どんなに後悔しても、謝っても、自分たちの罪がなくなる分けではない。お母さんは八木重吉の一編の詩を紹介していました。「解決」という詩です。

「基督が解決しておいてくれたのです

 ただ彼の中へはいればいい

 彼につれられてゆけばいい

 何の疑いもなく

 こんな者でも

 たしかに救って下さると信ずれば

 ただあり難し

 生きる張合いがしぜんとわいてくる」。

 自分では解決できない問題がある。しかし、キリストが十字架の上で、私どもの解決できない問題を負って下さった。そして甦って、先回りして私どもを迎え、出会って下さった。この方の夫も晩年、洗礼を受けられました。

 

4.①先週、石川地区で長く、親しい交わりをしてきた金沢南部教会の大隅啓三牧師が逝去されました。隠退後、大隅牧師の説教集『人生の意味』が刊行されました。その中に、イースター礼拝で語られた説教が何編か納められています。その中で繰り返し強調されていることがあります。甦られた主イエス・キリストと出会うことは、私どもも死んでも生きる存在とされる。私どもも復活して生きることなのだ。このように語ります。

「私たちは時にこの世から捨てられることがある。この世にとって塵芥のように思われる。そういう境涯、どん底に落とし込まれる、そういうことがあるでありましょう。だから社会的には、この世的には死んでしまった、そういうふうに言われることもあるわけであります。しかし、キリストを信じる者は、たとえ社会的に葬られてもなお生きているという、そういうことであるのではないかと思います。社会のどん底で、泥沼でのたうちまわっているような、そういう生活あるいは世間から憐れみを受けるような、そういう生活の中に落ち込んでも、それで終わりだとは思わない。その中でなお生き続けることができる。

 世間の評価、あるいは毀誉褒貶(ほめたりけなしたり)、そういうことに無感覚になって、その中から立ち上がることができる。あるいはその中で役割を担っていくことができる。そういうのがわたくしたちキリスト信者に与えられた特権であるのではないかと思います」。

 

主イエス・キリストは甦って生きておられる。先回りして、挫折し、失意の中にある私どもを迎え、新たに召して下さる。ここに私どもの信仰の原点があるのです。

 

 お祈りいたします。

「失敗し、後悔し、挫折し、立ち直れなくなる私どもです。しかし、甦られた主イエス・キリストを先回りして、私どもを迎え、召して、立たせて下さるのです。甦られた主イエス・キリストから新たな使命を託され、主イエス・キリストは甦って生きておられる。この喜びの知らせを伝える者とさせて下さい。甦られたキリストにあって、死んでも生きる福音に生きさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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