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「天の故郷を目指す旅人の人生」

創世記12章1~4節
ヘブライ人への手紙11章13~16節

主日礼拝

井ノ川 勝 牧師

2025年11月2日

00:00 / 33:22

2025.11.2. 「天の故郷を目指す旅人の人生」

       創世記12:1~4,ヘブライ11:13~16


1.①今年、金沢教会は教会創立144周年を迎えました。実に、長きに亘り、この地に教会は立ち続けて来ました。教会の歴史は、この礼拝堂で主イエス・キリストと出会い、洗礼を受け、主を賛美する新しい命の誕生の歴史でもあります。しかし同時に、この礼拝堂で地上の最後の礼拝を捧げ、神さまの御許にお送りした葬儀の歴史でもあります。

 今朝は逝去者記念礼拝を捧げています。皆さんにお渡しした「逝去者名簿」には、実に多くの私どもの信仰の先達の名が記されています。一人一人のお名前が、主イエス・キリストを信じて、地上の人生を生きた信仰を証ししています。一人一人のお名前に、懐かしい信仰の想い出があります。午後には野田山の教会墓地で墓前祈祷会、納骨式が行われます。

 昨日、金沢教会の教会員であった柚木美智子さんの長男・利啓さんの伴侶の記念会をしました。1年前、伴侶を突然亡くされました。まだ67歳でした。直前まで会話をしていましたが、咳き込んでそのまま意識を失われました。東京の国立教会で葬儀を行われました。伴侶を亡くされた柚木さんは今、国立教会で洗礼を受けるために、礼拝と入門講座に出席をされています。死は突然やって来ます。大切な家族の命を奪って行きます。私どももいつ死を迎えるか分かりません。一回一回の家族との対話、交わり、一回一回のこの礼拝も、改めて一期一会であると思いました。

 

私どもの地上の人生の歩みは、様々な言葉で言い表すことが出来ます。聖書には実に多くの地上の人生を歩んだ信仰者の姿が証しされています。聖書が証しする地上の人生の歩みは、何と申しましても「旅人」として捉えていることです。地上の人生の歩みは、「旅」であるということです。

 旅には目的地があります。目的地を目指して旅をします。たとえ途中、困難なことがあっても、目的地に辿り着く努力を重ねます。目的地が到着地でもあります。私どもの人生の目的地はどこにあるのでしょうか。目標としていた仕事を成し遂げることでしょうか。しかし、目標としていた仕事を成し遂げても、人生の旅は尚、続きます。人生の旅の最後には、死が訪れます。死んで、墓に葬られます。人生の旅の目的地、到着地は、死であり、墓なのでしょうか。

 しかし、聖書はそのようには語りません。人生の旅の目的地は死でも、墓でもない。主イエス・キリストによって備えられた天の故郷である。私どもは天の故郷を目指して旅をする旅人。しかも一人で旅をしているのではありません。主イエス・キリストが先頭に立って導いて下さる。そして信仰の仲間と共に支え合いながら旅をしているのです。

 

2.①今日の御言葉はこういう言葉から始まっていました。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものは手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです」。

 聖書の最初に登場するアブラハム以来、実に多くの信仰者が信仰を抱いて地上の旅を行い、信仰を抱いて地上の旅を終えました。金沢教会の逝去者名簿に連なる一人一人も皆、信仰を抱いて生き、信仰を抱いて死にました。地上の人生において、自分の手で掴み取ったものも多くなりました。しかし、神が約束されたものは、地上にあってはまだ手に入れていませんでした。神が約束されたものとは、何でしょうか。天の故郷です。神が約束された目指す地です。「あなたの人生の目的地は死ではない。墓でもない。主イエス・キリストによって備えられた天の故郷ではないか」。遙かに天の故郷を仰ぎ見ながら、主に向かって賛美を歌いながら、地上にあっては「よそ者」「滞在者」として生きたのです。

 地上にあっては「よそ者」とは、「旅人」という意味です。「滞在者」は、地上にあって「寄留者」「仮住まいの者」という意味です。

 私どもには地上に故郷があります。自分が生まれ育った懐かしい故郷です。また、家族と共に過ごした想い出深い家があります。何度でも帰りたくなる故郷であり、家です。しかし、死が訪れた時には、地上の故郷から旅立たなければなりません。想い出の家から旅立たなければなりません。地上の故郷、家は、私どもにとって、永遠の故郷、永遠の家ではありません。それ故、私どもは地上にあっては旅人であり、寄留者、仮住まいの者であるのです。

 それでは、死が訪れた時、私どもはどこへ向かって旅立つのでしょうか。主イエス・キリストが備えて下さった天の故郷です。神の都とも呼ばれています。神が設計し、神が建設されたものです。それ故、天の故郷、神の都は、永遠の故郷、永遠の都であるのです。

 

天の故郷を目指す私どもの地上の旅を、先頭に立って導かれるのは、主イエス・キリストです。このヘブライ人への手紙は、主イエス・キリストに対して、特別な表現で語っています。「大祭司イエス・キリスト」です。大祭司とは、私どもを代表して神を礼拝する者です。私どもに代わって、神に献げ物をする者です。私どもの救いのために、神に執り成す者です。

 この手紙はこのように語っています。

「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです」。

 大祭司イエスキリストは、私どもの弱さを知り、私どもの苦しみを共にし、苦しんで下さる。罪は犯されないという一点を除いて、私どもが日々味わう悲しみ、苦しみ、試練を、大祭司イエス・キリストも味わって下さる。私どもの傍らに立ち、執り成し、支えて下さるのです。

 大祭司は、私どものために神さまに献げものをし、私どものために執り成して下さいます。大祭司イエス・キリストは自らを十字架に献げ、私どものために血を注いで下さいました。そのことにより、私どもは憚ることなく、大胆に神の御前に進み出て、神を礼拝出来るようにされたのです。そして大祭司キリストが十字架で流された血によって、天の故郷が開かれました。私どもは憚ることなく、大胆に、天の故郷を目指して旅する道が拓かれたのです。天の故郷をあごがれ、目指しつつ、地上の一歩一歩の旅を、大祭司キリストに導かれながら、執り成されながら歩んで行くのです。

 

3.①今日、お渡ししました「逝去者名簿」の中にも、お名前が記されていますが、コロナ前ですが、東京の国分寺教会から金沢教会に転会されて、礼拝を捧げられていた長谷川房雄さん、長谷川湧生子さんがおられました。長谷川湧生子さんの葬儀を行った時、かつて東京の国分寺教会の牧師をされていた渡辺正男牧師が葬儀に参列されました。その折り、渡辺牧師から『新たな旅立ちに向かう』という説教集をいただきました。渡辺牧師が隠退されてから、隠退教師と伴侶の施設、にじの家信愛莊の礼拝で語られた説教、ハンセン病の施設多磨全生園の秋津教会の礼拝で語られた説教をまとめられた説教集です。その中に、説教集の題名にもなりました「新たな旅立ちに向かう」という説教があります。

「わたしは以前、青森市の郊外にある小規模の教会に仕えましたが、その時に、青森市内のハンセン病療養所松丘保養園のなかにある教会、松丘聖生会の礼拝に出席しました。7年間礼拝の説教をさせていただきました。最初は15,6人の出席でしたが、最後の頃は10人を割っていました。高齢の方々で、10数年後には、消滅する可能性の高い教会です。終末に向かっている教会ですね。

 その松丘聖生会の入り口に、大きな看板がかかっています。その看板に、『われらの国籍は天にあり』とフィリピ書3章20節のみ言葉が記されています。これは、教会員の信仰の希望をよく表していると思います。60年も70年も苦労に苦労を重ねてきた方々です。悲しみや怒りに耐えてきた、惨めさや屈辱に、天の御国への希望をもって耐えてきたのですね。わたしは、その方々と礼拝を共にできたことを感謝しています。御国へのあこがれをもってささげる礼拝、一期一会の終末的な礼拝です。わたしにとって宝のような7年間でした。

 そのこともあって、現在わたしは、東村山にある多磨全生園の秋津教会の礼拝に毎月出席しています。時折説教もさせていただいています。いつの日か、主イエスと同じ身体に、天の御国にふさわしい霊的な身体に変えられる。いつか、涙のぬぐわれる日がくる、その御国への希望をもって礼拝をささげる。そういう礼拝です。わたしは、その礼拝を共にして、主の前に立つという畏れと希望を新たにする思いになります。厳かな思いになります。

 どうでしょう。主イエスと同じ栄光の姿に変えられる希望、その御国へのあこがれは主の福音の欠かせない一面ではないでしょうか」。

 

この手紙はこう語ります。

「ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」。

 私どもは自らの信仰、信仰生活に目を留めると、神さまの前で本当に恥ずかしい信仰、信仰生活であるとつくづく思います。しかし、天の故郷にあこがれて生きる私どもを、神はあなたがたの神と呼ばれることを恥とされない、と言うのです。これは大変な御言葉です。慰めに満ちた御言葉です。神の御前で恥と呼ばれるもの一切を、大祭司キリストが十字架の上で引き受けて下さったからです。

 渡辺先生が先程の説教の結びで、能楽に触れています。舞い人が、舞い終わって舞台から降りて引き上げる時に、もう一度舞台に戻って、名残を惜しむかのようにひと舞い、舞ってから引き上げる。それを「入舞」という。ある方はそれを「老いの入舞」と呼んでいます。人生最後に、もう一度、名残を惜しむかのようにひと舞する。私どもにとっては、それは礼拝です。天の故郷へのあこがれを持ちつつ、それは天の礼拝へのあこがれを持ちつつ、地上で最後の舞を舞う。地上で最後の礼拝、主への賛美を捧げる、主への祈りを捧げる。天の故郷を目指しつつ、地上を旅する私どもにとって、地上の礼拝はこれが最後の礼拝になるかもしれない礼拝なのです。

 

4.①サムエル・ウルマンの詩に、「なぜ涙を?」があります。

「嘆きの涙は欲しくない

 

 永遠の国へ私を急がせる

 嗚咽も溜息も欲しくない

 

 私の行く道を悲しくする

 喪章や打ち沈んだ衣服を身につけないで欲しい

 そのかわりに白く輝かしく よそおって

 古い慣わしを忘れて欲しい

 

 私が去り行くとき

 挽歌は歌って欲しくない

 うるわしい良き日のために

 愛の手で高き調べをかなでて欲しい

 

 

 私のために このような言葉は言って欲しくない

 私の生命の灯は消え去っていったと

 ただ こう言って欲しい

 彼は今日、旅に出て 旅を続けていると

 

 別れの涙があふれたら

 そっと その日をそのままにしておいて欲しい

 私を惜しむことなく 共に過ごした日々を喜んで欲しい

 そして こう言って欲しい『満ち潮だ。よい船旅を』」

 

ヘブライ人への手紙は、礼拝で語られた慰めの説教です。ローマ帝国の迫害の中で、家族、親しい友、信仰の仲間の命が喪われる中で、涙を流しながら語られ、聴かれた説教です。葬儀において語られた慰めの説教です。今日の御言葉は繰り返し語られた説教の言葉であったことでしょう。福音のリズムがあります。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。もし出て来た故郷のことを思っていたのなら、帰る機会はあったでしょう。ところが実際は、彼らはさらにまさった故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません。事実、神は、彼らのために都を用意しておられたのです」。

 天の故郷を目指し、地上を旅する私どもの歩みは続きます。先頭に立たれる大祭司キリストに導かれ、執り成されて、信仰の仲間の旅人と共に慰め合いながら、望みをもって一足一足確かな歩みを刻みたいと願います。

 

 お祈りいたします。

「大祭司キリストの執り成しによって、私どもの旅の目的地、到達地は死でも墓でもなくなりました。天にある故郷を目指す旅が開かれたのです。先だち歩まれる大祭司キリストよ、愛する家族を亡くされた悲しみの涙を拭って下さい。揺れ動く私どもの心を受け止めて下さい。弱った私どもの足を確かにして下さい。一足一足の信仰の歩みを導いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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