「安心して行きなさい」
列王記下 5章8~19節
マルコによる福音書 5章25~34節
井ノ川 勝 牧師
2026年2月8日
026.2.8. 「安心して行きなさい」
列王記下5:8~19,マルコ5:25~34
1.①誰もが様々な悩みを抱えながら生きています。しかもその悩みは一つだけではありません。二つ、三つ、幾つも抱えています。小さな手の中に、抱え切れない程の悩みで溢れています。私どもの手の中に、悩みが幾つも絡み合っています。それを解こうすると、却って、悩みの糸が複雑に絡み合ってしまいます。益々、悩みが私どもにどっしりと重くのし掛かって来ます。自分でも解けない悩みを幾重に抱えた、私どもはどこへ向かって、その悩みを訴えればよいのでしょうか。それこそが最も重要なことです。
そのような私どもに向かって、神は語りかけます。
「悩みの日に、わたしを呼べ。わたしはあなたを助ける」。
神のこの呼びかけに応えて、私ども一人一人は今、悩みを抱えたまま神の御前へ進み出たのです。
②この朝、私どもが聴いたマルコによる福音書の御言葉は、二つの出来事が絡み合っています。二つの悩み、苦しみが絡み合っています。一つは、会堂長ヤイロの娘が死にそうであるということです。もう一つは、12年間出血の止まらない女の苦しみです。病と死、この二つは、私どもの力ではそうすることも出来ないものです。私どもの心と体を締め付ける苦しみの糸です。そのような病と死の重荷を抱えた二人が、共通して向かった先があります。主イエスの許です。主イエスにこそ、自分たちの苦しみの解決があると思ったからです。ところが、二人の主イエスへの向かい方には決定的な違いがあります。
会堂長ヤイロは真っ正面から主イエスに近づき、足元にひれ伏して、しきりに願いました。「娘が死にそうです。どうか、助けてください」。ところが、12年間出血の止まらない女は、後ろからそっと主イエスに近づき、主イエスの衣に触れています。悩みや苦しみを抱えた時、主イエスに近づき、主イエスの前に差し出す。しかし、その差し出し方は全く異なります。
今、水曜日の祈祷会で、教会員が順番で、キリストと出会った証しをしています。その証しが、会報「みち」に掲載されています。一人一人の証しを聞いて思うことがあります。神さまはいろいろな仕方で、主イエスと出会わせて下さったのだなあということです。一人一人が抱えている悩みは異なる。主イエスと出会った年齢も異なる。主イエスと出会った仕方も異なります。しかし、ただ一つ同じことは、皆、様々な悩みを抱えながらも、主イエスとお会いし、救われたということです。
2.①12年間出血の止まらない女がいました。様々な医者にかかり、治療をしましたが、一向に良くなりませんでした。治療のために用いた時間、お金もかさみました。そのために全財産を使い果たしました。体も心も悪くなる一方でした。長年、病を抱えた者の苦しみがここにあります。
私も小学6年生から中学1年生にかけて、8か月間入院生活をしました。学校にも行けない。友だちは中学生になり、勉強やクラブに打ち込んで、充実した中学生活を送っている。一人取り残された思いになりました。もし健康であれば、この8か月間の時間を他のために用いることが出来たのに。病気治療のために使ったお金を別のために用いることが出来たのに。私は何のために生きているのだろうか。そのようなことを考えると、心まで重く沈み込みました。
絶望の淵に陥ったこの女に、主イエスのうわさが聞こえて来ました。主イエスは様々な病を癒し、悲しみを慰めて下さる。そこで女は藁も掴む思いで、主イエスの許を訪ねました。しかし、女には深刻な問題がありました。女が抱えていた病は出血が止まらなかった。婦人病でした。律法では汚れた病と言われ、聖なる所に立ち入ることが禁じられていました。聖なる方に触れることも禁じられていました。主イエスに近づきたい。しかし、それが出来ない。女にとって最後の望みも絶たれようとしていました。
しかし、女は諦めませんでした。藁をも掴む思いで、主イエスに近づこうとしました。会堂長ヤイロのように、真っ正面から主イエスに近づけない。女に残された道はただ一つです。後ろからそっと主イエスに近づくことでした。主イエスは群衆に取り囲まれていました。女は群衆に紛れ込んで、後ろからそっと主イエスに近づきました。そして誰にも気付かれないように、主イエスの衣に触れました。女に確かな信仰があったわけではありません。
「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」という、淡い思いに過ぎませんでした。
ところが、主イエスの衣に触れた途端、すぐに出血が止まり、病気の苦しみから解放されたことをその身に感じました。その時、主イエスの足が止まりました。自分の内から力が出て行ったことを感じたからです。
②主イエスの足が向かう先、それは死にかかっている会堂長ヤイロの12歳の娘です。一刻の猶予も許されない切羽詰まった状況です。足を止めている時間などないのです。ヤイロが一番やきもきしたことでしょう。「イエスさま、私の娘が死にかかっているのですよ。足を止めて、この女に関わっている時間などありません。娘の命が懸かっているのです。一分一秒を争うのです。この女に関わるのは後回しにして下さい。この女の苦しみは後からでも命に関わらないでしょう」。
しかし、主イエスは自分に触れた者の苦しみを後回しにされることはしません。女の苦しみを放って置かれることなどしません。病と心の苦しみは一つだからです。
主イエスは足を止められ、振り返られます。そして語られました。
「私の衣に触れたのは誰か」。
元の言葉は、「私に、私の衣に触れたのは誰か」。
主イエスの衣に触れることは、主イエスに触れることだと、主イエスは受け止めておられます。
弟子たちは答えます。
「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか」。
しかし、主イエスは、ただ一人、違った仕方でわたしに触れた者がいると感じられました。そこで主イエスは自分に触れた女を見つけようとして、辺りを見回されました。
女は主イエスから咎められると思いました。汚れた病のまま、主イエスに触れたからです。女は群衆に紛れ込んで、立ち去ることも出来たはずです。しかし、急ぎ足を止めて、立ち止まり、後ろを振り返り、見回される主イエスのまなざしに捕らえられました。女は自分の身に起こったことを知り、恐れを抱き、震えながら主イエスの前に進み出てひれ伏し、全てをありのまま話しました。この時、初めて女は主イエスと対面しました。主イエスが立ち止まり、振り返って、まなざしを注いで下さることにより、女は初めて主イエスの御前に進み出て、ひれ伏し、対面することが出来たのです。女が初めて捧げた主イエスへの礼拝です。主の御前で、畏れをもって捧げた礼拝です。
3.①私が大学生の時、キリスト者学生会というサークルに所属していました。ある会で、私の後輩が自分がどのようにして主イエスの許へ導かれ、洗礼を受けたのか、証しをしたことがありました。高校生の時、キリスト教学校に入学した。学校の勧めがあり、自宅の近くの教会の礼拝に出席するようになった。毎週、主を礼拝し、御言葉を聴き、主イエスの招きに従い、洗礼を受けたいと思った。そして洗礼準備会に出席した。その会に出席されている求道者は皆、熱心で、聖書の御言葉をよく知り、牧師に様々な質問をしていた。自分がまだ聖書の御言葉を十分に知らず、洗礼を受けるのはふさわしくないのではないかと思った。準備会が終わった後、牧師に洗礼を取り止めてほしい、もう少し後にしてほしいと願い出た。その時、牧師は今日の御言葉を語り出した。
この女には主イエスへの確かな信仰があったわけではない。もしかしたら、万が一、病が癒されるかもしれないという淡い思いであった。恐る恐る差し出した女の手を、しかし、主イエスはしっかりと掴んで下さった。そして女にこう語られた。「あなたの信仰があなたを救った」。そっと差し出した私どもの手を、主イエスはぎゅっと握り締めて下さる。私どもが救われるということは、そういうことなのだよ。彼はこの御言葉に導かれて、高校生の時に洗礼を受けました。
伝道者パウロは、主イエスによって救われることを、この一言で言い表しました。
「たとえ私たちが不真実であっても、キリストは常に真実であられる」(テモテ二2・13)。
カルヴァンはこの御言葉をこのように説き明かしています。この女の信仰には迷信に近い不純物が混ざっていた。「せめて、主イエスの衣にでも触れさえすれば、私の病が治るかもしれない」。せめて、もしかしたら、万が一という淡い思いで、主イエスへ差し伸べた弱々しい手であった。しかし、この女が差し伸べた方向には誤りがなかった。主イエスへ手を差し伸べた。そこにこの女の信仰があった。それ故、主イエスはこう語られた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。
主イエスは女の淡い、弱々しい手も、「あなたの信仰」と認めて下さるのです。そして何よりも重要なことは、女の淡い、弱々しい手を、ぎゅっと握って下さる主イエスの確かで、大いなる御手の中で、女が救われたことです。
重要なことは、主イエスの御手に握られ、捕らえられることです。私どもが主イエスを握る信仰の握力は、様々な苦しみに直面しますと弱まります。主イエスを離してしまうことがある。しかし、私どもを握る主イエスの愛の握力は決して弱まることはありません。どんなことがあっても、病に直面しても、死に直面しても、私どもを握っていた主イエスの御手は決して離すことはないのです。
②主イエスは女に語られました。
「安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい」。
女は再び、様々な苦しみが渦巻く生活の場へ帰って行くのです。様々な苦しみに直面し、信仰がぐらつくのです。主イエスはそのことを誰よりもよくご存じです。
「安心して行きなさい」。心の状態が安心である、という意味ではありません。別の言葉で言えば、「神の平安の内に行きなさい」。これは私どもが捧げる礼拝の最後で語られる祝祷、神の祝福の言葉です。神の平安の中で、キリストの平安の御手に捕らえられて、様々な苦しみが渦巻く生活の場へと遣わされるのです。キリストから遣わされた生活の場で、主の平安の御手に捕らえられて、達者でいなさい。健やかに生活しなさい。
昨年8月、長く共に礼拝を捧げていた深谷松男長老が逝去され、また1月には深谷英子さんが逝去されました。深谷松男長老が亡くなる1年半前に書かれた本に、『福音主義教会法と長老制度』があります。その「あとがき」で、私ども夫婦の信仰を支えた一人の老牧師と一組の夫婦のことを記しています。一人の老牧師とは戦前、戦中、戦後の30年間、金沢教会の牧師であった上河原雄吉牧師です。一組の夫婦とは使徒言行録に登場するプリスキラとアキラ夫妻です。深谷長老は上河原雄吉牧師のことをこう綴っています。
「『私のような者でも救われる』。先生がよく言われた言葉です。先生は若さゆえの不正行為により中学を中退し、病にかかり、そのどん底から献身されました。このことを知らない者でも、この言葉を聞くとき、キリストの救いの確かさと豊かさを覚えずにはおれないのでした。また先生は、しばしばこう言われました。『最後はキリストが握っておられる』。この言葉を聞いた人は誰であれ、忘れられない力ある言葉となったことでしょう。今、この時も、私を支える言葉です」。
私どもの命を握るのは、病でもなく、死の力でもない。12年間出血の止まらない女の病を癒された主イスは、死にそうであったヤイロの娘を生き返らせました。主イエス自ら十字架にかかり、死に打ち勝ち、甦られ、私どもに出会って下さいました。最後はキリストがいのちの御手で、生きる時も死ぬ時も、私どもを握っておられる。それ故、主イエスは語られ、私どもを遣わされるのです。
「安心して行きなさい。神の平安の内に行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい」。
4.①日本キリスト教団出版局が、『キリストと出会う~洗礼を受けるまで~』という本を出版されています。20名の方々がどのような仕方でキリストと出会い、洗礼を受け、救われたのか、その証しが集められています。作家、政治家、女優、神父、修道女、様々な方がいます。一般の方もいます。水木英子さんが「療養所の一隅で」という文章を書かれています。
10代、20代と、函館の結核療養所のベッドの上で、安静に過ごさなければならなかった。当時、結核は不治の病と言われていた。いつ訪れるかもしれない死への恐怖と不安の日々だった。随分と若い人々が死んで行った。
病室の建っている片隅に、大きなくるみの木が一本立っていた。そのくるみの木の下に霊安室があった。霊安室に電灯が灯ると、誰言うまでもなく、「また電気がついたね」と言った。私は、霊安室に電気がつくと言いようのない虚無感に捕らわれた。死に向かって生きているこの人生に、どのような意味や目的があるのか。夜、看護婦さんがきて、「消灯ですよ」と電気を消して行ったあと、今眠ったらこのまま朝が来ないのではないかと思ったことが幾度もあった。ですかた。死に直面している今の「生」の意義をほんとうに知りたいと思った。
その頃です。私の隣りの方が個室に移されました。そうして10日も経たないうちに、ご主人とお子さんをおいて亡くなってしまいました。亡くなったと聞いて、その人の病室に行ってみました。そこには、ついこの間まで会話をしていた人がどこにいるのかと思うほどの薄い身体になって横たわっていました。冷たくなった友を見たとき、空しさがものすごい勢いで胸の中を走りました。
療養所には聖書研究会というグループがあり、函館教会の草間信雄牧師が週一回訪ねて下さって、小さな食堂で礼拝を守っていました。御言葉を聴き続けている内に、御言葉に捕らえられました。キリストの生ける御手に捕らえられました。確かに死は現在の生を終わらせます。私たちは全て平等に死ななければなりません。しかし、聖書は言います。「その終局は永遠の生命である」と。十字架の上で現して下さった永遠の生命です。もしキリストが十字架で死んで葬られ、それで終わったならばどうなっていたでしょうか。もしキリストが甦っていなかったら私はどうなっていたでしょうか。
キリストは甦ったのです。イエス・キリストの復活において現してくださった永遠の生命。神による生命。神の中にある生命。神から出づる生命。この永遠の生命こそ、私を絶望のきわみから呼び戻してくれた救いです。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」。私は、療養所の一隅で洗礼を受けました。どんなに短い生命であっても、また、ただ寝ていなければならない生命であっても、神さまが与えて下さっている生命です。嘆き悲しんではいけない。生き生きと生きなければならないと思いました。そうしてベッドの上だけの生活であっても、何か出来ることはないだろうかと思いはじめたとき、はじめて生きている事の喜びがひしひしと沸き上がってきました。
かつて療養所の死の床から「何もない私をこのままで救って下さい」と叫び求めた祈りを新たにして、神さまが生きなさいと言って下さる限り、これからも神さまのお赦しの中で生きていきたいと思います。
②死と向き合う絶望のきわみの中にいた一人の女性を救って下さった主イエス・キリストのいのちの御手が、今朝も、あなたにも伸ばされ、あなたを捕らえ、救いへと導くのです。あなたを用いて下さるのです。主イエスは今朝も、私ども一人一人に語りかけるのです。
「安心して行きなさい。私の平安の中を生きなさい。病苦から解放されて、達者で、健やかに生きなさい」。
お祈りいたします。
「様々な苦しみに捕らえられ、苦しみ悶える私どもです。しかし、私どもが主に差し伸べる弱々しい手を、主イエス・キリストは確かな大いなる御手で捕らえて下さるのです。主の大いなるいのちの御手の中で、私どもを救い、主のために用いて下さい。主の平安の内に、私どもを新たに遣わして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
