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「引き裂かれて救う神」

申命記 32章39~42節
マタイによる福音書 26章69~75節

矢澤 美佐子 副牧師

2026年3月29日

00:00 / 36:50

 受難週を迎えました。主イエス・キリストの御苦しみを覚える一週間です。

 これまで私は、悲しみや悩みに寄り添ってまいりました。共に涙を流した日は、数えきれません。悩みを抱えた方々が、静かに、私がおります集会所を訪ねて来てくださる方もおられます。小さな明かりの下で、悩みのある方の隣に座り、震える声で語られる苦しみに耳を傾け、背中にそっと手を当てながら、共に祈る時を重ねてきました。

 また、定期的に訪れているホスピスでは、先月、共に礼拝をささげた若い女性が、今月、訪ねた時には、すでに神様の御もとへと帰られていました。別れの中に、言葉にならない想いが残ります。後日、ご家族からいただいた感謝のお手紙には、神様に抱かれた平安に包まれていました。

 さらに先日、講演に伺ったクリスチャン・メンタルケア・センターでは、奉仕をされている方々と出会いました。そのやわらかで優しい眼差しに、深い悩みに寄り添い続けられた重みを感じました。

笑顔の奥には、誰にも見せない涙があり、人はみな、それぞれの痛みを胸に抱きながら、今日を生きています。


 被災地でも、出会いがいくつもありました。お母さんを亡くしたばかりの中学生の男の子。「どうして、お母さん死んだの。普通の人生がよかった。普通がよかった」。その言葉と一緒に、大粒の涙が止まらなくなりました。私は、寄り添い、背中をさすりながら、自分の幼い日の夜を思い出していました。6歳の時、母を亡くし、暗い部屋の中で、寂しさが胸いっぱいに広がり、「どうして、お母さん死んだの。普通がよかった」と、何度も泣いた夜がありました。

 その話をすると、男の子は、「うん、うん」と静かに応えてくれました。


 また、家族を一度に二人亡くされた方とも出会いました。懸命に前を向こうとしている方でしたが、時折、電話でこう話されます。「何のために生きているのか分からなくなる時がある。これから、何のために生きていけばいいの」長くお話を伺ったあと、私は静かに、自分のことを打ち明けました。 男手ひとつで育ててくれた父が、私が大学生の時に亡くなったこと。父も母も失い、「こんなに辛い人生なら、早く終わってしまった方がいい。私の命に何の意味があるの」と問い続けた日々があったこと。そして、こう申し上げました。「私も、ここにいます。あなたは決して一人ではありません。一緒に、生きていきましょう」電話の向こうで、かすかな息遣いとともに、「はい、はい」と何度も応えてくださいました。


 受難週の静かな時を迎えています。

 主イエス・キリストの御苦しみを覚えるこの一週間、金沢教会でお仕えする最後の一週間を、どうか健康に過ごせますようにと願っていました。けれど先週半ば、突然強い頭痛が起こり、痛みに耐えながら、ただ天井を見つめて横たわる時を過ごしました。静かな部屋の中で祈っていると、これまで寄り添ってきた方々の涙や苦しみが、胸に押し寄せてきました。教会の片隅で打ち明けてくださった苦しみ、青年の震える声、電話口で言葉を詰まらせた方の息遣い。その一つひとつが、よみがえってきました。

 そして同時に、自分自身の歩みも思い出していました。幼い頃から、母のいない人生なら早く終わってしまった方がいい、と思い続けていたこと。父も亡くなり、家族のいない寂しさの中で「この命に意味はあるの」と問い続けていた20代。

 生きていく理由がほしかった。自分が生まれてきた意味がほしかった。命の理由がほしかった。

30歳の時、脳梗塞と脳出血を経験しました。病院から見える外の世界はあまりにも遠く、健康に歩いている人が光って見えました。毎週、礼拝に出席し続ける方々の姿が、まぶしく見えました。 今回の痛みの中で、再び天井を見つめながら祈りました。「私も横たわっています。主よ、苦しむ人のそばに、どうか私を置いてください。」


 今日も、さまざまな悩みや重荷を抱えながら、この礼拝堂にこられた方がおられることでしょう。私たちは皆、悲しみを知っています。しかし、その悲しみを通ってきたからこそ、ささやかな幸せの大切さ、当たり前の日々の尊さを知ってこられたのではないでしょうか。弱くなって初めて見えて来る、この世界の美しさがあります。


 どうか、あなたの悲しみは、あなた一人のものではありません。あなたの苦労も、あなた一人きりのものではありません。涙を知る一人として、私もここにいます。そして、金沢教会は、互いに声をかけ合い、祈り合いながら歩んでいます。

 共に祈ってきた日があったから、今、心から言えます。

 神様と共になら、あなたと共になら、闇の中でも生きている意味があります。

 神様と共になら、あなたと共になら、遠回りの人生でも、生きている意味があります。

 病の日々でも、涙の日々でも、宝物です。これが神様のなさる救いの御業です。

 聖書が語る癒しは、必ずしも苦しみが消えることではありません。悩みや痛みが続いていても、神様が共にいてくださるぬくもりの中で、「生まれてきてよかった、生きていてよかった」と心の底から思えるようになります。それこそが、神様の癒しなのです。


 時に私たちは、「こんな人生なら終わらせてしまいたい」と思うほどの叫びを抱えます。家族のいる人がうらやましい、人のぬくもりを知りたい、健康な人がうらやましく見えることもあります。そして、気がつけば、自分の痛みと周囲の幸せの比較の中でしか、自分の人生を見られなくなってしまいます。自分の痛みの経験で作り上げた価値観の檻に、自分自身を閉じ込めてしまうのです。けれど神様は、その檻を静かに壊してくださいます。今までの、自分の世界で、自分の経験で得た価値観を、神様は台無しにしてくださるのです。


 人と比べなくていい。痛みを知る信仰の友と共になら、むしろ、遠回りの方がいい。雨の日や涙の日があった方がいい。一人で強く生きようとする努力さえ、神様は、愛をもって壊してくださいます。どうか一人で生きようとしないでください。涙のあと、濡れた瞳の奥には、優しいきらめきと共に美しい虹がかかります。かけてくださるのは神様です。そして私たちは、お互いの濡れた瞳に、優しい虹がかかるように神様のお手伝いをしているのです。

 あなたは、生まれてきてよかった。生まれてきてよかったんです。

 私たちは、揺るぎない神様を得ました。それを経験するのが、この教会です。

 神様と共に見つめるこれからの世界は、美しい色で満たされていきます。日々の中に散りばめられた、ささやかな幸せがあります。どうか、この命を大切に生きてください。


 金沢教会でお仕えする最後の一週間、私は頭痛の中で天井を見つめる時を過ごしました。けれど、そのすべてを通して、主の前にひざまずき、深い感謝をささげました。主は、御苦しみを覚えるこの受難週にふさわしい痛みを、私にも与えてくださいました。


 病は、主に愛されている証拠。そう言って、ある信仰の友が、心震わせ、感動した本を紹介してくださいました。それは、「道ありき」三浦綾子さんの自伝的小説です。

 三浦綾子さんは、生涯にわたって幾度も大きな病に見舞われました。23歳の時、肺結核を患います。当時は不治の病と恐れられていた時代です。旭川の療養所で過ごした長い年月は、孤独と絶望に包まれた日々でした。静まり返った病室で、ただ天井を見つめる時間が続きました。

 けれど、その深い闇の中で彼女は、聖書に出会い、キリストに救われていきます。

 やがて中年期には、結核菌が脊椎に及び、激しい痛みと身体の不自由に苦しみました。そこで彼女は語ります。「健康で自由に動けることが、どれほど大きな恵みでしょうか」と。晩年にはパーキンソン病を患い、手足は震え、思うように歩くこともできなくなっていきました。それでも、作家として筆を置くことはありませんでした。神様から与えられた命を、最後まで生きたのです。

 病は彼女の人生を奪ったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

 むしろ苦しみの中でこそ、神様の恵みの深さを知り、人の痛みに寄り添う言葉と信仰が生まれていきました。そして、人生そのものを、美しいと感謝するほどになられたのです。


 三浦綾子さんは、ある時こう語りました。「私は、神様にえこひいきされている」。

 私は、この言葉にふれた時、嬉しくて大笑いしました。嬉しかったんです。どれほど多くの人々が、この言葉に救われたことでしょう。神様は、この世の価値観を、台無しにしてくださいます。長い療養生活、繰り返す痛み、思うように動かない身体。この世の価値観から見ると、それは決して「恵まれている」とは言えない歩みだったでしょう。しかし彼女は、「愛されている、えいこひいきされている」と告白したのです。神様は、この世の価値観を覆してくださいます。


 そして、私たちの人生の景色は、主の十字架と共に、ほんとうに静かに変わり始めていくのです。この変化は、どれほど大きな光になるでしょうか。

 だからこそ、涙を流す時があっていい。遠回りの歩みであっていい。神は、その一つひとつを用いて、私たちの信仰をやわらかくされ、隣人の痛みに寄り添う主のまなざしが、私たちにも与えられていくのです。


 三浦綾子さんの言う「えこひいき」とは、苦しみが取り除かれることではなく、苦しみのただ中で、主の十字架に近づくこと、「特別な恵み」そう受け止めたのです。私たちは、決して一人ではありません。無理に一人で強く生きようとしないでください。神様は、この世の人生を通して、私たちを、支え合う「愛の器」へと形づくってくださっているのです。


 今週、私たちは心を静め、主の御苦しみを思う受難週の歩みをしています。

 その歩みの中で思い起こしたいのが、最後の晩餐の場面です。

 パンを裂き、杯が手渡され、主は静かに語られました。「私は捕らえられ、十字架につけられ、殺される」その言葉は、弟子たちの胸を貫きました。部屋の空気が凍りつきます。

 弟子たちは、勝利するメシアを思い描いていたからです。力強く敵を打ち倒し、自分たちを救い出してくださる方を待ち望んでいました。だからこそ、思わず声をあげます。「何を言うのですか。そんなことがあってはなりません」

 その時代、人々はローマ帝国の支配に苦しんでいました。だからこそ、現実を変えてくれる強い救い主を求めていたのです。しかし、主イエスが、エルサレムに入られたとき、乗っておられたのは勇ましい軍馬ではなく、小さなロバでした。そして主は、繰り返し語られます。「私は、殺される。私は、殺されるんだ」

 弟子たちは耐えられません。主イエスの身体をつかんで、揺さぶって、こう言いたかった。「しっかりしてください」。

 

 このあと、夜の静けさを引き裂くように、出来事は一気に動き出します。神に仕えているはずの祭司長や長老、律法学者たちが、兵士や群衆を引き連れて、なだれ込むようにやって来たのです。松明の炎が揺れ、足音が近づき、怒号が飛び交う中で、弟子たちは恐怖に押され、じりじりと後ずさりしていきます。そして、ついに一人、また一人と闇の中へと逃げていったのです。主イエスは、ただお一人、残されました。

 

 主イエスは、こぶしで殴られ、平手で打たれ、顔につばを吐きかけられます。そして、総督ピラトのもとへ連れて行かれます。ピラトは主を見つめ言います。「この人に罪は見いだせない」 しかし、群衆の声は、渦のように膨れ上がり叫びます。「十字架につけろ。十字架につけろ。」その叫びは次第に勢いを増し、ついにピラトは押し切られ、神の御子に死刑を言い渡すのです。神を、死刑にする。それは、ほかでもない、私たち人間の罪の現実です。

 

 兵士たちは、神の御子の身体を容赦なく鞭で打ちます。ムチは、何度も、何度も主イエスの身体に巻きつき、打たれるたびに、焼けつくような痛みが走り、皮膚は裂け、血がにじみ出ました。茨の冠が頭に押しつけられ、とげが深く食い込み、血が額を伝い落ちていきます。そのまま主は、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘へと歩かされます。流れ落ちる血。足がすべり、よろめき倒れそうになりながら、それでも一歩一歩、進まれたのです。

 丘に着くと十字架につけられ、両腕は、左右にできるだけ遠くに引き伸ばされ、冷たい釘が激しい音と共に、手のひらに勢いよく打ち込まれます。そして足にも大釘が打ち込まれます。

 

 十字架は、ローマ帝国が人々を従わせるための、最も残酷な「見せしめ」でした。その十字架の上に、神の御子が、かけられているのです。弟子たちは、「思い描いていた救い主と違う」そう言って、同じ目にあうのが怖くて逃げたのです。

 群衆はなおも叫び続けます。「十字架につけろ」頭を振り、あざけりながら、主をののしります。主は、新しい愛の道を示されました。それは、人々にとって、自分の正しさが否定されることでした。だから人々は、主イエスを、神の御言葉を、消し去りたいと思ったのです。

 その中に、私たちもいます。「十字架につけろ」と叫ぶその声の中に、自分の正しさを守ろうとする、私たちの罪の姿が重なっているのです。私たちは、心の奥にある、ざわめきを振り払うように、さらに激しく叫び、神の御子を打つのです。神の御子イエス・キリストの一つひとつの激しい痛みの中に、私たちの罪が刻まれていくのです。

 

 そして殺してみたら、本当に、神の子だったのです。本当に、神の子だったのです。

 

 聖書は、私たちの罪の姿をはっきりと映し出します。こういう残酷さ、恐ろしさを私たちが持っている。そして、私たち自身をも傷つける残酷さ、恐ろしさを打ち負かす、本当に力のある平安を生み出そうとしておられる。それが、主イエス・キリストです。私たちの罪は本当に根が深く、ただ理想を描くだけ、「良い人になろう」と願うだけでは克服されないのです。だから、私たちの罪は、神が、私たちの代わりとなって死ななければ解決しないのです。

 

 私たち自身も、人の罪によって、ののしられ苦しめられる存在として傷ついています。その時、私たちは、何を求めるでしょうか。ののしる人が滅ぼされれば、それでよいのでしょうか。しかし、それでは、私たち人間の罪そのものは、何も解決しないのです。

 私たちは、この世の、人間の残虐さだけを見つめるのではなく、十字架の上で、神の御子が、ただ黙ってすべてを受け止め、忍耐しておられる姿を見ます。その沈黙の中にあるのは、弱さではなく、負けでもなく、最後まで私たちを、全ての人を、救うために愛し抜かれる神のお姿です。罪ある私たちを、それでもなお見捨てず、抱きしめるために、神の御子イエス・キリストは、ご自分の命を差し出されました。

 言葉だけではありません。きれいごとではありません。血を流し、痛みを受け、命を捧げて、最後まで愛し抜いてくださるのです。

 

 主イエスは、ののしられます。「それでも神の子か。十字架から降り、自分を救ってみろ」。しかし、主イエスは、十字架から降りることをなさらなかったのです。あざけりの中で、神な力を発揮して、人々を見返せればいいのにと思います。主イエスは、その気になればすぐ十字架から降りて、自分を助けることもおできになるはずです。死んだ人を生き返らせ、嵐を沈める奇跡も起こされる、主イエスは、神の子、救い主です。

 しかし、ここで神の御子は、十字架から降りるわけにはいかないのです。主イエスは奇跡を行えない、十字架から降りることができない。そう思われたまま、黙って耐え忍ばれるのです。

 ここで降りれば、この世の支配者になるかもしれません。ここで見返せば、人々の上に立つことができるかもしれません。しかし、主イエスは、十字架から降りないのです。自分を救えないのではない。自分を救わず、私たちを救うのです。

 

 主イエスは、祈られました。「天の神よ、どうぞ、彼らをおゆるしください」主イエスは、私たちの罪を全て負って、十字架について下さっているのです。理不尽に苦しめられている人々を救うためにも、同じ理不尽をも味わって下さっているのです。全ての人の苦しみを負って、十字架についておられるのです。それゆえに、十字架から降りるわけにはいかないのです。

 私たちは、罪によって死ななければならなかった。滅びて終わりだったのです。主イエスが、ただ黙ってののしら続け、私たちの罪を全て負って、血を流し続けられた。だから、私たちは、罪赦され、滅ぼされず、死を打ち破って、神の国へと救われていくのです。

 

 十字架の上の主の姿は、決して「神らしい」姿ではありませんでした。黄金の冠ではなく、茨の冠。栄光の衣ではなく、引き裂かれた布。あまりにも低く、あまりにも小さく見えるその姿に、私たちは、神であると気づくことができないのです。しかし、このお方こそ、誰にも真似できない愛をもって、最後まで私たちを愛し抜かれる、神の御子、救い主です。

 

 そして、天の父なる神にとっては、神の御子イエス・キリストは、愛する独り子です。愛する独り子を、私たちのためにお与えになりました。死へと、滅びへと向かう私たちを、どこまでも愛するがゆえに、黙って見ていることができなかったのです。

 「裁き」と「救い」――本来、決して同時に成り立つことのない、この二つが、十字架の上で出会ったのです。それは人間の理性では受け止めきれない、神の深みそのものでした。

神は聖なるお方です。罪をそのままにしておくことはできません。罪は裁かれなければならない。そこに妥協はありません。けれど同時に、神は愛なるお方です。滅びていく私たちを、そのまま放っておくことはできない。この二つの間で、神ご自身が引き裂かれるのです。罪を裁かなければならない神と、罪人が滅んでいくのを黙って見ていることのできない神。 

 「裁き」と「愛」が、神ご自身の中で、激しくぶつかり合います。

 

 そして、その時、神は、驚くべき決断をされたのです。

 私たちを裁くのではなく、ご自分の愛する独り子を、その裁きの場へと差し出されるのです。丘に立つ十字架。その上にかけられているのは、罪を犯した私たちではなく、罪のない神の御子イエス・キリストです。

 イエス・キリストが、打たれる、その一撃ごとの痛みに、私たちをかばう、愛があります。

 

 引き裂かれるイエス・キリスト。同時に、父なる神も引き裂かれているのです。

 それゆえ、父なる神は、私たちに語りかけておられます。

 「あなたを赦すために、わたしは、わたしの愛する子を死に渡した。あなたの罪を見過ごしたのではない。わたし自身が、それを引き受けたのだ。それほどまでに、私は、あなたを愛している。それほどまでに私は、あなたを愛している。私ほど、あなたを愛する神は他にはいない」

 

 だからこそ、私たちは「新しい天と新しい地」の福音を聞くとき、深い痛みの中に、静かに感謝がしみわたります。

 主イエスは、自らを犠牲にして、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死も、悲しみもなく、喜びに満ちる神の国へと、私たちを導いてくださっています。永遠の命へと生かされている。

 主は、ご自分の命を犠牲にするほど、私たちを愛してくださっている。この一点こそが、私たちの命の理由です。

 

 昨日、中島真さんの葬儀が執り行われました、中島真さんも、今、キリストの命と共に、死を超えて、神の御国へと入れられています。私たちは、今はまだ、映画の予告編のように、神の国の一部しか見ることができません。しかし、はっきりと見る時が来るのです。それは、これまでもよかった、けれど、これからがもっといい。そう言うことのできる、希望に満ちた神の国です。その神の国へと、私たちは罪赦され、入れて頂くのです。主の犠牲によってです。

 

 そして、主の犠牲の愛。そのただ中に、ペトロの姿もありました。

 ペテロは、主イエスに「あなたのためなら命を捨てます」と豪語しました。しかし、主イエスが、捕らえられた時、周囲の人から問い詰められ、「イエスなんて知らない。誓って、知らない」と裏切った。ペテロは、息ができないくらいに泣いたのです。泣いて、泣いて、泣けるだけ泣きました。

ペトロは、真剣になって信じて従って来たのです。一生懸命に従って、自分の人生をかけて来たのです。ペトロには勇気があり、強かった。

 それなのに、いざとなれば「あんな人知らない。誓って知らない」。言うはずのないことを、言ってしまったのです。私たちも、同じ経験をしているのです。自分の胸を、きつく叩きたくなります。


 その私たちを、主イエスは、十字架の上で、慈しみの眼差しで見つめてくださるのです。「それでも、私は、あなたを愛している」主イエスの愛は、私たちの罪を、私たちの死をも超えて、貫かれていきます。

 こんな私を、赦してくださった。悲しみと喜びが、入り混じる感情の中で、私たちは、生まれ変わっていきます。私たちの相応しさ、私たちの努力を超えたところからの力によって、私たちは、救われ、生まれ変わっていくのです。


 復活された主イエスは、ペトロに会います。

 そして、ペトロに尋ねるんです。「あなたは、私を愛しているか」ペテロは、自分の口から「絶対に愛しています」とは、もはや、言えない。

 ペテロは、こう答えるしかないのです。「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」。もはや、かつてのような自信に満ちた言葉ではありません。むしろ、傷つき、挫折した者、弱さを抱え、打ち砕かれた者としての答えでした。私はもはや、自分の愛を絶対だとは言えない。

 「私の全てをご存知の主よ。もはや、あなたを愛する資格など、私にはないかも知れません。けれど、主よ、私が、あなたを愛していることは、あなたがご存知です。私は、やっぱり、どうしても、あなたを愛してしまうんです」。

 私たちの自身の努力や、英雄的な力ではありません。主イエスに赦されたこと、主イエスに愛されたことが、私たちを変えていきます。


 今も注がれる愛「わたしほど、あなたを愛する神は他にはいない」神様は、今も、熱く、熱く、私たち一人一人に語りかけて下さっています。この愛を、どうして黙っていることができるでしょうか。

 赦された喜びに涙しながら、愛されている恵みに心震わせながら、主の愛に生かされて、主の愛に押し出され、この主の愛を、新しい人へと、手渡していきたいと思います。

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