「愛には恐れがない」
ホセア書 11章1~9節
ヨハネの手紙一 4章7~21節
主日礼拝
井ノ川 勝 牧師
2026年2月1日
2026.2.1. 「愛には恐れがない」
ホセア11:1~9,ヨハネ一4:7~21
1.①私どもが生きるために、どうしても必要なものとは何でしょうか。これなくしては、生きられないものとは何でしょうか。皆さんは、どう答えられるでしょうか。いろいろなものが挙げられることでしょう。しかし、ただ一つのものを挙げるとしたら、それは何と言いましても、「愛」ではないでしょうか。私どもは愛されないと生きて行けない。愛さないと生きて行けない存在だからです。しかし同時に、私どもは愛されることにおいても、愛することにおいても、傷つき、愛の破れを経験して来ました。愛に対して失望しています。この世界に真実の愛などあるのだろうか、疑いを抱いています。
しかし、それでも尚、私どもは愛を求めて生きています。愛なくして生きられないからです。そのような私どもが出会ったのが、聖書です。聖書は何よりも、愛を語っているからです。
聖書の中で、愛を集中的に語っている御言葉があります。一つは、コリントの信徒への手紙一13章、「愛の賛歌」と呼ばれています。もう一つが、今朝、私どもが聴いたヨハネの手紙一4章7節以下の御言葉です。この御言葉も「愛の賛歌」と呼ばれています。声に出して読むとすぐに分かります。一つ一つの言葉がリズムを刻んでいます。もしかしたら、礼拝で歌われていた讃美歌であったかもしれません。愛は知識として学ぶものではなく、神から呼びかけられ、それに応えて、歌いながら生きるものです。
②東京神学大学の竹森満佐一先生が、コリントの信徒への手紙一13章の「愛の賛歌」を説き明かした、『愛』という小冊子があります。東神大パンフレットとして出版されたものです。各教会の集会の読書会のテキストとして用いられました。私は大学生の時、この小冊子を読んで驚いたことがあります。「はじめに」と「あとがき」で、竹森先生がこういう言葉を記していたからです。
「愛を語ることは、おそろしいことです。自分が問われるからです。愛を語る時には、自分に愛のないことについての謙遜な悔い改めが必要です」。
牧会経験豊かな牧師であり、一筋の心で愛を語って来られた竹森牧師が、このように語るのです。愛を語ることは、自分に愛がないことが問われ、悔い改めが迫られると言うのです。悔い改めなくして、愛は語れないと言うのです。
20世紀を代表する神学者であり、伝道者であったカール・バルトは、膨大な本を書かれ、世界の教会、日本の教会にも大きな影響を及ぼしました。優れた説教者でもありました。しかし、晩年、教会で説教をしなくなりました。バーゼルの刑務所で囚人たちに説教することを喜びとしました。それ故、「バルト先生の説教が聞きたければ、刑務所に入らなければならないね」とも言われました。囚人たちは日々、自らの罪と向き合い、死と向き合いながら生きている。それ故、一回一回の礼拝、説教を、これが最後の御言葉になるかもしれないと、真剣に聴いている。
今日の御言葉の中で、「愛には恐れがない」という一句を説き明かした説教があります。素晴らしい説教です。こういう語りかけから始まっています。
「私の愛する兄弟、姉妹!あなたがた皆さんは、これまでの人生のどこかで、きっと<悔い改め>という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。悔い改め、それは向きを変えて帰ること、新しく始めること、ひとりの人間の人生において、これまでとは異なった、よりよい道が始まるということであります」。
囚人たちは日々、「自分の罪を悔い改めなさい」という言葉を聞かされています。そのような囚人たちに向かって、愛を語るのです。ところが、今日の御言葉には、「悔い改める」という言葉は用いられていません。しかし、神から「愛に生きなさい」と呼びかけられることは、「悔い改めに生きる」ことなのだと、バルトは受け止めているのです。神に愛されている私を知り、愛に生きる者は、悔い改めに生きるのです。悔い改めるということは、向きを変えて神に帰ること、新しく始めること、ひとりの人間の人生において、これまでとは異なった、よりよい道が始まることなのです。
2.①金沢教会に遣わされる前、伊勢の教会で伝道していました。併せて、教会の幼稚園の園長もしていました。毎週、園児に御言葉を語りました。月の聖句があり、園児はその御言葉を暗唱します。幼稚園に入園した3歳児が最初の暗唱する御言葉が、今日の御言葉の中にあります。「神は愛なり」「神は愛です」。新約聖書の中で最も短い御言葉です。しかし、聖書の全てを語る御言葉です。私どもが言葉を尽くしても尽くしても、語り尽くせない豊かな御言葉です。人生の最初に出会う御言葉が、人生の生涯を導く御言葉となるのです。神は愛なる神である。神こそが愛である。愛なる神を知ることが、愛に生きることなのです。神に愛されている私を知り、私も愛に生きるのです。ヨハネの手紙一は、「神は愛なり」。この一句を説き明かした御言葉なのです。
今日の御言葉の中に、繰り返されている言葉があります。「ここに愛がある」。他のどこでもない、ここに愛がある。「ここに」という言葉は、「場所」を表す言葉です。私どもが愛を語る時には、「心の状態」「心のあり方」を考えます。あの人は私に愛の心を注いで下さる。あの人は今まで私に、愛の心を注いで下さったのに、今は愛の心を注がなくなってしまった。愛の心の状態、愛の心のあり方に、私どもは一喜一憂しながら生活しています。しかし、この手紙は、愛を語る時に、心の状態、心のあり方として語っていません。「ここに愛がある」。愛は「場所」なのだと語るのです。
私どもは日々、様々な場所で生きています。家庭という場所、学校という場所、職場という場所です。場所を抜きにして、私どもは生きることは出来ません。場所があるということは、私の居場所があることです。生きる場所があるということです。ここには私の居場所がない。今日、そのことで苦しんでいる方は多くいます。家庭にも、学校にも、職場にも、社会にも、私の居場所はない。私の生きる場所がない。私の存在を否定される厳しいことです。私の居場所がなくて、自ら命を絶たれる方も多くいます。悲しいことです。
しかし、神が愛であるということは、神が私どものために場所を据えて下さった。居場所を備えて下さったということです。それが「ここに愛がある」です。愛は「心の状態」「心のあり方」ではありません。私どもの心の状態は、誠に不安定です。風が吹けば、すぐに揺らいでしまいます。親にとって、一番辛いことは、わが子が苦しんでいる姿を見ることです。親であっても、わが子の全てを知ることは出来ません。わが子が何を苦しみ、悩んでいるのか分からない。いや、分かっていても助けることが出来ない。母がわが子に語りかけます。「心配しないで、大丈夫よ」。しかし、そう語りかける母もまた、心配なのです。大丈夫ではないのです。母の愛の状態は揺れ動いているのです。確かな愛に立てないのです。
②しかし、愛は「心の状態」「心のあり方」ではありません。愛は「場所」を据えることです。その場所に招くことです。それがこの御言葉なのです。「ここに愛がある」。「ここ」という場所は、どのような場所なのでしょうか。二つの御言葉が繰り返されています。
第一は、この御言葉です。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちに内に現されました」。
もう一つはこの御言葉です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりした。ここに愛があります」。
私たちが生きるようになるための場所。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さった場所。それはどこか。神が愛する独り子、御子イエスを、私たちの罪のために犠牲の献げ物としてお遣わしになった場所です。すなわち、主イエス・キリストの十字架の出来事が起きた場所です。神の愛が御子イエスの十字架の出来事となって、私どもが生きる歴史の中で、世界の中で、具体的となった場所です。ここに愛があるのです。
この朝、初めて礼拝に招かれた方がいるかもしれません。私ども一人一人は皆、神に招かれて、神の御前に立っているのです。神の御前に立つことは、十字架の主イエス・キリストの前に立つことです。ここで神の愛に触れるのです。神から愛されるに価しない私どもが、何の条件もなく、神から愛されていることを知るのです。神がこの私のために、愛する御子を十字架にお遣わしになられ、あなたの命は御子の命と釣り合う程の重さを持っているのだ、との神の語りかけを聴くのです。生きる居場所がなく、生きる価値を見出せず、自らの手で自分の命を奪おうとしている私に向かって、神はあなたのために愛の居場所を造った。あなたは生きるのだ、との神の語りかけを聴くのです。
主イエスが語られた「失われた息子」の譬え話があります。放蕩に身を持ち崩した息子が、父の腸引き千切れる程の愛の痛みによって、父の懐へ立ち帰る出来事が起こりました。それが御子イエス・キリストの十字架の出来事により、私どもにも起こるのです。父なる神は私どもが滅びることを願っておられない。私どもが立ち帰って生きることを喜ばれる。そのために、愛する御子を十字架にお遣わしになられ、自らの腸を引き裂いてまで、愛の痛みをもって、私どもを父なる神の懐へと立ち帰らせるのです。ここがあなたが立ち直って生きる場所なのだと、愛をもって私どもを引き寄せるのです。
3.①神が御子イエス・キリストの十字架の出来事によって造られた、私どもの生きる場所、居場所こそ、この手紙の冒頭で語られたキリストの命の交わり、キリストの愛の交わり・教会なのです。今朝、私ども一人一人が、神に呼ばれ、キリストの愛の交わりへと招かれたのです。教会は建物ではなく、キリストの愛の交わりです。
この手紙は、愛は「心の状態」「心のあり方」ではなく、「場所」なのだと語りました。教会がキリストの愛の交わりであるということは、愛は「関係」「繋がり」「絆」でもあるということです。私どもは一人で生きることは出来ません。孤独の中では生きられません。愛の交わりが必要です。愛の関係、愛の繋がり、愛の絆が必要です。キリストの愛に結ばれた交わり、関係です。それ故、この手紙は私どもに繰り返し語りかけます。
「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれた者であり、神を知っているからです。神は愛だからです」。
「愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです」。
無条件に愛された者は、愛する者へと変えられます。愛の交わりに生きる者とされます。キリストの愛を無条件で受けた者は、キリストを愛し、自分を愛し、共に生きる者を愛するようになります。キリストの愛の交わり・教会を生きる者とされます。
教会はキリストの愛の交わりです。しかし、しばしば残念なことに、愛の交わりに躓き、教会の交わりから離れて行く者がいます。愛の交わりに生きる者でありながら、愛の言葉、愛の振る舞いから離れている。人に躓いてしまう。実は、この手紙が書かれた理由も、そのような痛みが教会にあったからです。愛の交わりに生きる教会の弱さが現れるのです。
しかし、愛は関係、繋がり、絆です。それは何よりも、神、御子イエス・キリストと私どもとの愛の関係、愛の繋がり、愛の絆です。私どもが神を愛したのではなく、神が私どもを愛して下さったのです。私どもが御子イエスを捕らえたのではなく、御子イエスが私どもを愛の御手で捕らえて下さったのです。それ故、神の内に留まりなさい。キリストの愛の内に留まりなさい、と繰り返し語られるのです。「留まる」という言葉は、この手紙が愛用する言葉です。強い意味の言葉です。「繋がる」という意味でもあります。神があなたの内に留まって下さり、愛して下さった。それ故、あなたも神の内に留まり、キリストを愛し、自分を愛し、共に生きる者たちを愛そう。愛の交わりに生きよう。
愛は「告白」を生み出します。「愛の告白」です。それが私どもを繋げ、一つにする愛の絆です。その「愛の告白」「愛の絆」こそ、この言葉です。「神は愛なり」。「神がお遣わしになられたイエスこそ、神の愛する子」。
②今日の御言葉、「愛の賛歌」の中で、どうしても触れなければならない御言葉があります。説教題にも掲げた御言葉です。
「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します」。
元の言葉の響きを表すと、こうなります。
「この愛には恐れがありません」。
「この愛」と、特定の愛を語っています。神の愛、御子キリストの愛です。
私どもが生きる交わりに、家庭、学校、職場があります。教会の交わりがあります。しかし、この交わりにはしばしば、恐れが支配します。不安が広がります。恐れが支配し、不安が広がると、息苦しくなります。呼吸困難に陥ります。歩むべき道を見失います。どうしたらよいのか分からなくなります。過去の過ち、失敗、罪、後悔が、現在の私を苦しめます。あの人との関係にひびが入り、修復したくても出来ない痛みが、心に疼きます。将来への不安が私どもを鎖のように締め付けます。死が私どもを四方から取り囲み、生きる望みを蝕みます。日々、様々な恐れ、不安が交わりを支配し、前へ向かって一歩を踏み出すことが出来なくなります。
しかし、そのような恐れと、不安の交わりの中にいる私どもに語りかけるのです。
「この愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します」。
神の愛、御子キリストの愛には、恐れがない。恐れを交わりの中から締め出すのです。追い出すのです。神の愛、御子キリストの愛で、教会の交わりを満たして下さり、命の息をもたらして下さるのです。過去の過ち、失敗、罪、後悔を愛で包み込んで下さる。私どもに覆い被さる死の力を、御子キリストは十字架にかかり、甦られ、打ち破って下さった。私どもは死の支配の中にあるのではない。生きる時も死ぬ時も、生けるキリストの御手の中にある。そして、キリストによって恐れから解き放たれて、キリストと共に前へ向かって一歩を踏み出させて下さるのです。
神の愛、キリストの十字架の愛に触れた時、私どもは悔い改めさせられる。悔い改めることは、神の愛に打ち砕かれ、神に立ち帰ることです。神の愛によって新しく造り変えられることです。キリストにあって、新しい命の道が備えられ、その道を歩み出すことです。
4.①先日、将棋棋士の加藤一二三さんが逝去されました。14歳で当時史上最年少の中学生プロ棋士となり、「神武以来の天才」と評されました。ところが、三十歳になり、なかなか勝てない日々が続きました。自分の将棋を見失い、自分自身を見失いました。将棋人生に行き詰まりを覚えた。このままでは先がないという辛い日々を過ごしていた。そのような中で、30歳の時、カトリック下井草教会に導かれ、1970年のクリスマスに洗礼を受けられました。
加藤一二三さんが月刊誌『信徒の友』で連載し、それを本にまとめられました。『だから私は、神を信じる』、
対局の前にミサに与る。また、対局中も時間があると、一人礼拝堂へ行き、祈りの時を持つ。神の御前に立ち帰り、祈りを捧げることにより、自分自身を取り戻した。自分の将棋を取り戻した。そして思い掛けない一手を打つことが出来た。
この本の最後に、「若い世代の人たちに伝えたいこと」という章があります。
一つは「うぬぼれないこと」「傲慢にならないこと」。それ故、日々こう祈る。「神よ、私は驕らず高ぶらず、身に余ることを求めようとはしません」。もう一つは、「絶望しないこと」。これは、神さまの愛はどんな大きな罪よりも大きいということを忘れている状態で、あらゆる希望を打ち消すことです。こては、この手紙の言葉でもあります。
「神は、私たちの心より大きく、すべてをご存じだからです」。
そして、最後にこう語ります。
「私のこれまでの歩みにもさまざまな困難な局面がありました。しかし、明日のことまで思い煩うな、との主イエスの言葉にも表されるような、神さまへのゆるぎない信頼と、神さまが与えてくださる恵みや力があったからこそ、こうして今まで生きてこられたことを思います。その意味で、私は神さまが生きて働いていらっしゃることを強く感じています」。
②加藤一二三さんはミサ、キリストのいのちである「ゆるしの秘跡」に与ることを重んじました。「自分の弱さや欠点を告白することを通して、自分が抱える重荷を神さまに取り除いていただく。さらには、私たちの重荷を取り除こうとしてくださる神さまの愛を味わうのです」。
この後、私どもはキリストのいのち・聖餐に与ります。この手紙の冒頭にあるように、ここに愛があります。ここにキリストのいのちの交わりがあります。ここにキリストの愛の交わりがあります。目で見、手で触れ、口で味わうことにより、死を超えたキリストのいのちの交わり、キリストの愛の交わりが、ここに形造られるのです。
お祈りいたします。
「愛なき存在であるにもかかわらず、傲慢になる私どもです。人を裁いてばかりいる私どもです。主よ、愛を注いで下さい。いや、神は御子をお遣わしになられ、あの十字架において、私どもに限りないいのち、愛を注いで下さったのです。その神の愛、キリストの愛を、聖餐を通して、全身で味わわせて下さい。キリストの愛によって形造られる私どもの交わりを、愛の交わりとして下さい。
この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。
