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「白馬に乗る神の言葉」

イザヤ書55章8~11節
ヨハネの黙示録19章11~21節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年7月26日

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2026.7.26. 「白馬に乗る神の言葉」

       イザヤ55:8~11,黙示録19:11~21


1.①世界はどこへ向かおうとしているのでしょうか。世界の現実と向き合う時に、誰もがこのような問いかけをいたします。世界の至るところで、戦争、紛争が行われています。権力者の覇権争いが行われています。闇が世界を覆い、将来への光が見えず、恐れと不安の中に包まれています。そのような中で、私どもは8月を迎えようとしています。広島、長崎に原爆が投下された日、敗戦の日を迎えようとしています。

 この朝、私どもが聴いた御言葉は、ヨハネの黙示録です。ヨハネの黙示録を記したのは、伝道者ヨハネです。ヨハネはアジア州にある7つの教会を、巡回しながら牧会していました。しかし、当時、ローマ帝国がキリスト教会に対して、厳しい迫害をしていました。ローマ皇帝を神として拝み、ひざまずかなかったからです。ヨハネは教会員から引き離され、地中海のパトモスの島に島流しに遭いました。しかし、その島から7つの教会に手紙を書き、御言葉を語り、励まし、牧会していました。

 主の日、ヨハネは僅かな者と、パトモスの島で礼拝を捧げていました。礼拝の中で、神から見させていただいた幻がありました。その神の幻を書き留めたのが、黙示録の御言葉となりました。

 

ドイツの牧師に、ハンス・リルエ牧師がいました。リルエ牧師はヒットラー率いるナチスに抵抗し、獄に入れられました。獄中で書いた黙想集があります。それがヨハネの黙示録であったのです。世界は第二次世界大戦真っ只中、終わりの見えない戦いを繰り広げている。日々、多くの命が失われ、犠牲となっている。リルエ牧師自身も、獄に捕らわれ、暗く狭い鉄格子の中で、自由を失っている。しかし、リルエ牧師は獄中で、ひたすらヨハネの黙示録の御言葉に聴き続け、黙想集を書きました。その黙想集の始めのところで、ヨハネの黙示録をどのように読むかを書いています。黙示録の急所を指摘しています。

 黙示録において、私どもはヨハネのように、神からの幻を見るのだと言うのです。幻は幻想、幻滅のように儚く消えて行くものではありません。神の幻はヴィジョンです。生き生きとした望みです。現実に打ち勝つ生ける望みです。神の幻は霊のまなざし、信仰のまなざしでないと見ることは出来ません。肉眼で見ている現実だけが真実の現実ではありません。霊のまなざしで見える神の幻こそ、神が生きて働かれる真実の現実なのです。目の前の厳しい現実の中に、神の幻、神の生きて働かれる幻、ヴィジョンを見るのです。ヨハネの黙示録は、そのような神の幻、ヴィジョンを私どもに見させてくれる。それを厳しい獄中で語っているのです。

 

2.①ヨハネの黙示録19章は、こういう御言葉から始まっていました。

「それから、私は天が開かれているのを見た。すると、白い馬が現れた」。

元の言葉は、「すると、見よ、白い馬が現れた」。ここには、「見よ」という言葉があります。神が新しい御業を行われる時に、必ず用いられる言葉です。聖書の中で最も短く、小さい言葉ですが、最も重要な言葉です。見よ、天が開かれ、白馬に跨がる騎士が現れたではないか。白馬の騎士を見なさい。白馬の騎士こそ、白馬に跨がるキリストです。

 世界を支配しているものは、悪魔であり、悪魔に操られているローマ皇帝である。しかし、ヨハネは悪魔を竜、ローマ皇帝を獣と記します。また、ローマ帝国を大淫婦と記します。次から次へと、ローマ皇帝を神として拝み、仕える者を生み出しているからです。私どもが生きている世界は、竜に支配されている。獣に支配されている。それらに苦しめられている。しかし今や、天が開かれ、見よ、白馬に跨がったキリストが現れた。竜と戦うためです。獣と戦うためです。

 ヨハネの黙示録は、世界を支配しているのは一体誰なのか。世界の終わり、歴史の終わりに、誰が立つのか。それが主題となっています。

 白馬に跨がるキリストが、いかなる騎士であるのか。それが詳細に紹介されています。白馬に跨がる騎士は、「忠実」「真実」と呼ばれる。神に対して忠実、真実であるからです。この「忠実」「真実」という言葉は、「アーメン」という意味でもあります。神の真実、神の言葉に、「アーメン」「然り」と応答する者です。3章14節に、キリストは「アーメンである方」と語られていました。私どもが「アーメン」と祈り、讃美歌を歌う時、そこに「アーメンである方」キリストが共におられるのです。執り成して下さるのです。キリストは神の真実に従うからこそ、神の正義をもって裁き、戦われるのです。

 白馬に跨がるキリストの目は、燃え盛る炎のようであり、頭には多くの王冠を頂き、この方には自分のほかは誰も知らない名が記されていた。その名は「神の言葉」と呼ばれていた。

 

白馬に跨がる騎士ですから、戦いの武器が必要です。しかし、キリストは戦いの武器として剣を持たない。手にする武器は、ただ神の言葉です。神の言葉だけで戦われます。世界の権力者は武器の数量、軍隊の数を誇ります。しかし、キリストは神の言葉一本で戦われます。この世の権力者から見れば、神の言葉など何の役にもたたない武器です。しかし、神の言葉は、キリストの口から鋭い剣が出ていて、諸国の民を御言葉で打ち倒すのです。

 ローマの教会に宛てた手紙に、ヘブライ人への手紙があります。そこにこうありました。

「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の重いや考えを見分けることができます」(4・12)

 更に注目すべきは、白馬に跨がるキリストは白い衣を纏っていたが、血染めの衣を身に纏っていました。戦いで浴びた返り血です。この御言葉はイザヤ書63章3節以下の神の怒りを語る御言葉と響き合っています。旧約1149頁。

「『なぜ、あなたの装いは赤く、あなたの衣は、ぶどうの搾り場を踏む人のようなのか』。私は一人で搾り場を踏んだ。もろもろの民の中で、誰一人私と共にいる者はなかった。私は怒って彼らを踏み、憤って踏みつけた。彼らの血が私の衣に飛び散り、私は装いをすっかり汚してしまった。私の心にある報復の日、私の贖いの年が来た」。

 白馬に跨がるキリストはまた、鉄の杖を持ち、諸国の民を治めていた。羊を守り、導く杖です。白馬の跨がるキリストは、騎士でありますが、何よりも羊飼いであることを止めてはおられないのです。

 キリストの衣と股には、「王の王、主の主」という名が記されていた。キリストこそ王の中の王、主の中の主、真の王、真の主であられる。

 このように白馬に跨がるキリストが先頭に立って戦っておられる。その後には、天の軍勢が白い馬に乗り、キリストの後に従い、共に戦っておられる。地上ではこの世の権力者が力を誇示し、自ら王であることを誇っている。その支配下で、多くの人々が苦しんでいる。しかし、霊のまなざしで、白馬に跨がるキリストが先頭に立って戦っておられる姿を見るのです。この方こそ、王の王、主の主であることを見るのです。

 

3.①ヨハネの黙示録の説教集の中で、私がいつも読むのは、四竃更牧師の『死に至るまで忠実なれ』です。この説教題は2章10節の御言葉から採られました。自らの伝道者としての姿勢を現した御言葉です。四竃更牧師の父君は広島教会で牧師をしていました。原爆投下を経験しました。姉君は広島女学院の生徒でしたが、被爆して亡くなりました。更牧師は小学校の学童疎開で校外にいたので助かりました。

 19章17節以下の御言葉は、真に生々しい御言葉です。戦いにより多くの命が失われ、地に倒れる。その肉を鳥が貪り食べる。人間の罪が生み出すおぞましい現実です。四竃更牧師は、この地獄とも言える現実を私は原爆が投下された広島で見たのだと語られます。人間の罪は悲惨な地獄の現実を生み出す。

 四竃更牧師がヨハネの黙示録の説教をされたのは、日本キリスト教会上田教会でした。平和運動をしながら、牧師として御言葉を語り続けました。ヨハネの黙示録を説教している時は、癌の病を負いながら、これが牧師としての遺言説教になるとの思いで語られました。説教集が出版されたのは、亡くなった後のことです。妻がテープから引き起こし、説教集としてまとめられました。夫の牧師としての遺言が一つ一つの説教に証しされているからです。

 四竃更牧師はこの御言葉を説き明かしながら、こう語られます。白馬に跨がったキリストの衣は、血染めの衣であった。しかし、この血染めの衣は返り血ではない。主イエス・キリストが十字架で負われた自らの血であることを強調しました。そこにキリストの戦いが頂点に達したのだと見たのです。

 ヨハネ福音書の冒頭に、黙示録のヨハネではない、別のヨハネが、初めて主イエスと出会った時に、主イエスが来られるのを見て、叫びました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。

 主イエスは十字架の上で、この世の権力者の罪のため、いや、私どもの罪のために、ただ一人で戦われたのです。ご自分の命を犠牲にしてまで、血を流してまで、私どもの罪を贖おうとされたのです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てることを現されたのです。それ程、私ども人間の罪は深く、恐ろしいのです。見よ、世の罪を取り除く神の小羊キリストが、白馬に跨がり、神の言葉を武器として戦われているのです。

 

礼拝前の30分間、聖書入門講座が開かれています。求道者、教会員が出席されています。永井春子牧師が中高生のために書かれた『青少年のためのキリスト教教理』を学んでいます。先々週・先週と「十戒」を学びました。「十戒」の第6戒に、「あなたは殺してはならない」があります。何故、人の命を殺してはならないのか。神が造られた命であるからです。人の命を殺すことは、命の造り主である神を軽んじることです。神を殺す重大な罪でもあります。戦争は多くの命が殺されます。自国の正義を振りかざし、多くの命が殺されることを正当化します。

 見よ、世の罪を取り除く神の小羊キリストが、十字架で自らのいのちを犠牲とし、血を流されることにより、私ども一人一人の命は御子の命と等しい重さを持っていることを明らかにされたのです。十字架の主キリストは甦られ、今、白馬に跨がり、神の言葉を武器とし、神の義を貫く戦いをされているのです。

 ヨハネの黙示録の主題は、世界を支配されているのは誰か。世界の終わり、歴史の終わりに立たれる方は誰かです。終わりの日、神の審きを受けても、なお残る真実は何かです。しかし、この主題は余りにも広大で、私どもにとって理解することが難しいかもしれません。そこで、このように言い換えてもよいかもしれません。私どもの命を支配しているのは誰か。私どもの命の終わりに立たれる方は誰かです。皆さんはどのように答えられますか。

 

4.①数年前、鈴木正久牧師の『王道』という本の復刻版が出版されました。「王道」は、王であり、主であるキリストの道です。鈴木正久牧師が西方町教会の週報に綴っていた文章です。

 鈴木正久牧師は1960年代の後半、日本基督教団総会議長に選ばれました。教団が神の義しき道とは何か、歩むべき路線を巡り激しく対立し、揺れ動いて時代です。しかし、命を削るような多忙の最中、膵臓癌であることが判明しました。そして56歳で逝去されました。

 鈴木正久牧師が娘の伶子さんから、余命僅かであることを告げられます。その時の自らの思いを綴っています。

「自分の命はまだしばらくは『あす』があると思っていた。ところが突然、自分の命に『あす』がないと告げられた。『あす』がないと『きょう』もなくなってしまう。自分にはまだまだやらなければならない仕事がある。日本基督教団はどうなるのか。西方町教会はどうなるのか。私の家族はどうなるのか。

 それを聞いた夜はショックで寝つかれませんでした。子どもの頃、天の父を呼んだように、何度も『天のお父さん、お父さん』と何回も呼んでみた。『キリストよ、聖霊よ、どうか私の魂に力を与えてください。そうして私の心に平安を与えてください』と呼びつけた。そうしたら明け方まで静かに眠りました」。

「ある夕方、伶子にピリピ人への手紙を読んでもらいました。パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら、非常に喜びあふれてほかの信徒に語りかけているのを聞きました。聖書というものがこんなにいのちあふれた力強いものだということを、わたくしは今までの生涯で初めて感じたくらいに今感じています。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。そうではなくて、それを越えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と、このように述べています。そしてそれが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです。わたくしはそのことが今まで頭の中では分かっていたはずなんですけれども、何か全く新しいことのように分かってきました。本当に明日というものが、地上ではもう一度事務をするとか、飛びまわるとかいうことを越えて、しかも死をも越えて先に輝いているものである。その本当の明日というものがある時に、きょうというものが今まで以上に生き生きとわたくしの目の前にあらわれてきました」。

 鈴木正久牧師が伶子さんに読んでもらったピリピ人への手紙は、この御言葉です。

「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています」。

 私どもの明日は死ではありません。私どもが生きている世界の明日は、滅びではありません。私どもの命の終末に立たれる方、私どもが生きる世界の終末に立たれる方は、死ではありません。この世の権力者、悪魔でもありません。白馬に跨がるキリストが立たれるのです。「キリスト・イエスの日」が、私どもの明日、私どもが生きる世界の明日となるのです。その時、今日という日をキリストと共にいかに生きるかが定まるのです。

 

白馬に跨がるキリストは、「忠実」「真実」と呼ばれ、正義をもって裁き、戦われます。このキリストの忠実、真実と響き合う御言葉が、2章10節の「死に至るまで忠実であれ」です。先程紹介した、四竃更牧師のヨハネの黙示録の説教集の題名に掲げられた御言葉です。

 「死に至るまで忠実であれ」。命懸けで最後まで頑張れという言葉なのでしょうか。この言葉を主イエスに向かって語った方がいます。ペトロです。「私は最後まであなたに従って行きます。あなたのためなら命も捨てます」。しかし、ペトロの真実、忠実は、直ぐに打ち砕かれました。「死に至るまで忠実であれ」。この御言葉に生きたのは、主イエス・キリストです。死に至るまで御自分の命を注ぎ出して、十字架の死を遂げられました。このキリストの真実に捕らえられた私どもは、キリストの真実に支えられて、キリストの真実に応え、今日をキリストに献身して生きるのです。死に至るまで忠実であれとの御言葉に、キリストの真実に支えられて生きるのです。

 私どもが生きる世界の中で、キリストの教会は小さな存在で、弱い存在です。世界のために何が出来るのかと問われれば、何も出来ませんと応える存在です。しかし、主は教会だけに託された使命があります。教会は世界を支配し、世界の終わりに立つお方を知っています。白馬に跨がるキリストの真実を証しするために、今、ここに立てられているのです。

 

 お祈りいたします。

「お互いが自らの正義を主張し裁き合う世界です。それは私どもも日常生活でしていることです。白馬に跨がるキリストよ、神の言葉によって、神の義で裁き、真実を現して下さい。キリストの真実に自らの真実が打ち砕かれ、キリストの真実に生きる者として下さい。終わりの日に勝利者として立たれる白馬に跨がるキリストを仰ぎ見、私どもも今日をキリストの真実に応えて生きる者として下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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