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「真実に生きるとは」

エゼキエル書 21章32節
ヨハネによる福音書 18章12~27節

「主日礼拝」

井ノ川 勝牧 師

2026年3月22日

00:00 / 37:18

2026.3.22. 「真実に生きるとは」

エゼキエル18:21~32、ヨハネ18:12~27


1.①3月は旅立ちの季節です。金沢教会の礼拝に出席されていた高校生、大学生も卒業され、4月から新しい地で、新しい学び舎で、職場で、大学生として、社会人として歩みを始められます。私どもが歩みます人生の道には、様々な方が往来します。私どもの人生の道を横切って行きます。しかし、そのような中で、私どもの人生の道と交錯する方がいます。私どもの人生の道と交わる方がいます。その時、そこで出会いが生まれます。出来事が生まれます。自分の人生の道を方向転換させられる出来事が生じます。そしてその方が私どもの人生の道を共に歩む、無くてはならぬ同伴者となって下さいます。皆さんがこれまで歩んで来られた人生の道にも、そのような大切な同伴者がおられると思います。

 しかし、全ての人が歩む人生の道において、必ず交差されるお方がおられます。交わって下さるお方がおられます。そのお方こそ、主イエスであると、聖書は告げているのです。皆さんの中には、まだ気付いておられない方がいるかもしれません。あなたが歩んでいる人生の道にも、既に主イエスが交錯されているのです。交わっておられるのです。主イエスがあなたと共に、人生の道を歩んで下さっておられるのです。

 

私どもが今、礼拝している礼拝堂は、棺が運ばれ、棺を囲んで葬儀をする礼拝堂でもあります。教会で葬儀を行う時に、必ず故人略歴を書いていただきます。故人が歩まれた人生の道を、一枚の用紙に記していただきます。いつ、どこで生まれ。どこの学校を卒業し、どんな仕事をされたのか。また、結婚され、お子さんが与えられたことが記されます。勿論、一枚の用紙では書き切れない人生の出会いがあり、出来事がありました。しかし、そのような故人略歴の中で、必ず記されることがあります。いつ、どこの教会で、どの牧師から洗礼を受けたのか。その一行を見ますと、ああ、この方の歩んだ人生の道にも、主イエスが交錯して下さった。主イエスが喜びの日も、悲しみの日も、健やかな日も、病の日も、共に歩んで下さったのだ。主イエスとの出会いが、この方の人生の歩みを方向転換して下さったのだ。そのことを深く心に留めるのです。

 

2.①私どもは今、受難節の歩みをしています。十字架に向かわれた主イエスの歩みを心に留めて、歩んでいます。新約聖書には4つの福音書が記されています。いずれの福音書も、主イエスの地上の歩みの最後の一週間を、力を込めて記しています。受難物語と言われています。その中心に立つのは、勿論、主役を演じる主イエスです。しかしもう一人、脇役として登場するのは、主イエスの弟子ペトロです。

ペトロはローマで、殉教の死を遂げたと言われています。ローマ帝国の迫害の中、葬儀を行うことなど出来なかったと思います。秘かに葬られたと思います。葬りの際、故人略歴が読まれることもなかったでしょう。しかし、誰もがペトロのことを良く知っていました。何故ならば、福音書がペトロの故人略歴であるからです。パトロがどのような人生の道を歩んだのかが、そこに明確に語られているからです。

ガリラヤの漁師であったペトロは、主イエスによって、人間をとる漁師として召されました。主イエスの一番弟子として、主イエスに従いました。パトロは後に、最初の教会の中心的な伝道者となりました。そのペトロにとって、故人略歴が記されている福音書において、消し去りたい個所がありました。主イエスを三度も知らないと言った、否認の出来事です。しかもこの場面は、4つの福音書全てに記されています。後の教会の指導者となったペトロにとって、甚だ不名誉な個所です。消そうと思えば、消すことも出来たと思います。しかし、ペトロはこの不名誉な個所を消そうともしなかったのです。何故でしょうか。私に起こったことは、この福音書を読む全ての人にも起こることだからです。主イエスに従いながらも、主イエスを知らないと3度も言い、主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて、故郷へ逃げ去ったペトロ。真に、ペトロの不真実な姿が記されています。しかし、そのようなペトロが、何故、立ち直ることが出来たのか。主イエスの弟子として、真実な歩みをすることが出来たのか。ペトロに起きたことは、福音書を読む私どもにも起こることだということを告げたいのです。パトロの故人略歴は、私どもの故人略歴でもあるのです。

私どもは誰もが、人生の道を歩む時に、真実に生きたいと願います。真実に生きるとは、一本筋の通った生き方をすることです。特に、私ども信仰者にとって、神のまなざしから見て、一本筋の通った生き方をしたいと願います。神の真実に貫かれた生き方をしたいと願います。主イエスを裏切った不真実なペトロが、神の真実に貫かれた生き方をした。一体、ペトロに何が起こったのでしょうか。そのためにも、ペトロが主イエスを三度知らないと否認した出来事は、消し去ることは出来なかったのです。

 

この朝、私どもが聴きましたヨハネ福音書18章には、主イエスの裁判の場面と、ペトロが主イエスを否んだ場面が、交互に記されています。ヨハネ福音書独特の記し方です。恰も演劇を観ているようです。二階では、主イエスの裁判が行われています。一階では、ペトロが主イエスを否んでいます。それが同時並行的に起こっています。私どもは観客として、その場面を目の当たりしているのです。

 主イエスは大祭司カイアファの姑アンナスから尋問を受けています。アンナスは大祭司を退いた後も、陰の大祭司として権力を握っていたからです。公の裁判です。そこでの一言一言が公の言葉として、記録されます。取り消すことの出来ない重みを持ちます。緊張した場面です。

 他方、ペトロは夜、こっそり大祭司の中庭に入り込み、主イエスの様子を伺いに来ました。そこでの対話は私的な対話です。日常生活の場面です。しかし、そこでペトロは躓いてしまうのです。何の権威も持たない門番の女、一緒にたき火にあたっていた下役、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者から、同じ問いかけを三度受けました。「お前もあの男の弟子の一人ではないか」。それに対して、ペトロは三度答えました。「違う」。その時、鶏が鳴きました。

 ペトロは最後の晩餐の席で、主イエスに向かって豪語しました。「たとえ他の弟子があなたを見捨てることがあっても、私は最後まで、死ぬまで、あなたに従います。あなたのためなら命を捨てます」。しかし、主イエスは答えました。「よくよく言っておく、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。

 主イエスが言われた通り、ペトロは三度、主イエスを知らないと言い、主イエスを裏切りました。しかもそれは公の裁判の場面で、権力者から問われたのではなく、日常生活の権力を持たない市民から問われた場面で起きました。私どもの信仰の挫折、躓きは、日常生活の何気ない対話の場面で起こるのです。

 

3.①ペトロが主イエスを三度否んだ時、主イエスは公の裁判で、権力を持ったアンナスから尋問を受けていました。主イエスは権力者にひるむことなく、大胆に語りました。

「私は、世に向かって公然と話してきた。私はいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。隠れて語ったことは何もない」。

 主イエスが語る言葉はいつも公然たる言葉であった。真実な言葉であった。不真実な言葉を語ったことなどない。

 ペトロが三度語った「違う」という言葉と響き合う言葉を、主イエスは三度語られています。最後の晩餐の後、主イエスはゲツセマネの園へ向かう途中で、ユダの導きにより、ローマの兵士に捕らえられます。その時、主イエスは進み出て語られました。「誰を捜しているのか」。彼らは言いました。「ナザレのイエスだ」。主イエスは答えられました。「私である」。

 この「私である」という言葉が三度語られています。この言葉と響き合う言葉が、旧約聖書の出エジプト記3章にあります。エジプトで奴隷であった同胞を見捨て、裏切り、挫折したモーセは、遠いミデヤンの地で羊飼いになっていました。羊の群れを連れてホレブのい山に登って来た時に、神はモーセに語りかえ、モーセに新たな使命を与えました。その時、モーセは神に語りかけました。「あなたの名は何か」。神は答えられました。「わたしはあってあるもの」。神が自らが神であることを現す名です。

この「わたしはあってあるもの」という言葉と響き合う言葉が、主イエスが語られたこの言葉です。「私である」。「わたしはあってあるもの」。「私こそ神である」ことを現す権威ある言葉です。主イエスがこの言葉を語った時、ローマの兵士は後退りして、地に倒れました。

 ペトロが語った「違う」という言葉は、元の言葉は「私ではない」という意味です。「あなたも主イエスの弟子ですね」。「私ではない」。「私は主イエスの弟子ではない」。主イエスが語られた「私である」という言葉に、否定形を付けると、「私ではない」となります。主イエスこそ神である。そのことを否定する。それは私が私である否定することになります。自分の存在を否定し、自らを見失うことになります。

ペトロは三度、主イエスを否みました。「私ではない」。「私は主イエスの弟子ではない」。「他の弟子があなたに躓いても、私一人は最後まで、あなたに従います。あなたのためなら命を捨てます」。ペトイロは主イエスに対し、真実を貫こうとしました。しかし、ペトロの決意は脆くも崩れ去ります。ペトロは「私ではない」、「私は主イエスの弟子ではない」と不真実な言葉を三度も繰り返しました。しかし、不真実なペトロを執り成し、支えたのが、主イエスの「私である」「私こそが神である」という主イエスの真実であったのです。

ヨハネ福音書が何故、主イエスの裁判とペトロの裏切りを交互に記したのでしょうか。舞台の上で、二階の主イエスの裁判の場面と、一階のペトロの裏切りの場面を同時並行的に演じている。二階では主イエスの真実が貫かれ、一階ではペトロの不真実が明らかにされている。主イエスの真実がペトロの不真実を執り成していることを強調するためであったのです。

 

主イエスはアンナスから裁判で尋問を受けた後、アンナスの甥である大祭司カイアファから尋問を受けます。カイアファはかつて、主イエスに向かって、こう言いました。

「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(18・14,11・50)。

 恐るべき言葉です。神から遣わされた神の子が民の代わりに死に、われわれが滅びないで済むほうが、好都合だ。この「好都合」という言葉は、世界が丸く収まるという意味です。神から遣わされた神の子によって審かれるよりは、われわれが神の子を裁いて、われわれに代わって死んでもらった方が、世界は丸く収まる。ここに私ども人間の不真実な罪が明らかにされます。しかし、カイアファのこの言葉は、今日の世界の権力者にもある不真実です。いや、私どもにある不真実です。

 主イエスはこの後、ローマの総督ピラトの下に送られ、最終の裁判を受けます。ピラトと主イエスの問答も興味は深いものです。ピラトは主イエスに尋ねる。「それでは、やはり王なのか」。主イエスは答えられます。

「私が王だとは、あなたが言っていることです。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聴く」。ピラトは尋ねます。「真理とは何か」。

 主イエスは語られます。「私は真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た」。いや、主イエス御自身が真理です。しかし、ピラトを始め、大祭司も、ユダヤ人も、人々も、皆、真理の声をひざまずいて聴こうとしない。逆に、真理を裁いている。私どもが裁く時、自分こそ義しいと確信するから裁きます。私どもが裁く時、裁かれる相手を上から見下ろしながら裁きます。真理である主イエスを裁くことにおいて、私どもの不真実の罪が明らかにされたのです。

 

4.①日本キリスト教詩人会という集いがあります。キリスト者の詩人が集まり、聖書を題材として、詩集を出版されています。その中に、『聖書における背きと回帰』という主題の詩集があります。聖書に登場する様々な人物が、神への背きに生きている。神への背きは滅びでしかない。しかし、神は人間が滅びることを願われない、神の許へ立ち帰らせようとする。それが聖書を貫く主題となっています。その代表的な人物が、ペトロでありました。この詩集の中にも、ペトロが取り上げられています。キリスト者の詩人が、聖書に登場する様々な人物の神への背きと神の許への回帰、立ち帰りを詩で綴る。それは自らと、私どもと重ね合わせているからです。

 「聖書における背きと回帰」を現す御言葉こそ、この朝、私どもが聴いたもう一つの御言葉、エゼキエル書18章です。預言者エゼキエルはこう語ります。18章21節以下。旧約1303頁。

「しかし、悪しき者が自分の犯したすべての罪から立ち帰り、私のすべての掟を守り、公正と正義を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行ったどの背きも思い起こされることはない。彼の行った正義によって、彼は生きる。私は悪しき者の死を喜ぶだろうかー主なる神の仰せ。私は、彼がその道から立ち帰り、生きることを喜ばないだろうか」。

 驚くべき言葉です。主なる神は、われわれ悪しき者が神に背き、罪の中で滅んで死ぬことを願われない。あなたは主に立ち帰って生きよ、と語られる。そのために、神の御子はわれわれに代わって裁かれ、われわれのために十字架で身代わりの死を死なれなければならなかったのです。そのことにより、神の真実が貫かれ、滅ぶべき不真実な私どもが主に立ち帰って、生きるものとされたのです。

 

ペトロは三度、「私ではない」「私は主イエスの弟子ではない」と否み、主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて、故郷ガリラヤへ逃げ去りました。しかし、十字架にかけられ、甦られた主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで、裏切ったペトロに現れました。そして三度、問いかけられました。甦られた主イエスとペトロの問答で、この福音書は結ばれています。

「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しているか」。

以前のペトロだったら、胸を張って答えたでしょう。「はい、主よ、私は他の弟子の誰よりも、あなたを愛しています」。

しかし、ペトロはそう答えませんでした。三度、同じ答えをしました。

「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

私が主イエスを愛する愛、主イエスを知っている愛は、私の内にはひとかけらもない。私には不真実しかない。しかし、もし私があなたを愛していると言えるなら、主よ、あなたが私を愛して下さる愛の中に、全てはあります」。

主イエスは何故、三度も、「あなたは私を愛するか」と問われたのでしょうか。三度目に主イエスから問われた時、ペトロは悲しくなりました。心が痛みました。何故ならば、主イエスを三度、知らないと言った自らの背きを思い起こしたからです。主イエスを裏切るペトロの不真実を貫く、甦られた主イエスの真実な愛が、ペトロを主の許に立ち帰らせ、立ち直らせ、主のために生きる僕として生まれ変わらせたのです。主イエスの真実がペトロの真実となって、生かしたのです。それは私どもにも今、起きていることなのです。

たとえ、私どもが不真実であっても、主イエス・キリストは常に真実であられるのです。

 

 お祈りいたします。

「人々のまなざしが気になり、主イエスを知らないと否む私どもです。主の御前で、不真実な歩みしかできない私どもです。しかし、主イエスは不真実な私どものために、裁かれ、十字架につけられ、真実を貫いて下さいました。私どもが滅びて死なないためです。主に立ち帰って生きるためです。どうか主イエスの真実に生きる者として下さい。主イエスの真実が私どもの生きる一本の筋となって、真っ直ぐに主に従って生きさせて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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