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「神のみを誇りとする」

ホセア書 11章1~9節
ローマの信徒への手紙 5章1~11節

「主日礼拝」

井ノ川 勝 牧師

2026年10月25日

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2026.10.25. 「神のみを誇りとする」

      ホセア11:1~9,ローマ5:1~11


1.①今朝は、宗教改革記念礼拝として、礼拝を捧げています。1517年10月31日、ローマ・カトリック教会の修道士であったルターが、ヴィッテンベルグの城の教会の扉に、95箇条の教会改革案を貼り付けました。それが切っ掛けとなり、宗教改革運動が始まり、プロテスタント教会が誕生しました。ルターはローマ・カトリック教会全てを敵に回しました。ただ一人で闘わなければならなかった。国会に召喚され、尋問を受けました。その時、ルターが語った言葉があります。

「われ、ここに立つ。主よ、われを憐れみ給え」。

私一人で闘わなければならなくとも、私はここに立つ。私が立っている足場が揺らぐことはない。

 宗教改革運動は、聖書に立ち帰る運動でした。聖書に立ち帰った時、教会が立つべき足場が明確にされました。ルターを宗教改革へと駆り立てた御言葉こそ、ローマの信徒への手紙でした。その重要な御言葉の一つが、今朝、私どもが聴いた5章1~11節の御言葉です。ここに私どもプロテスタント教会が立つべき足場があるからです。「われらはここに立つ」と断言する信仰の足場があるからです。

 実は、5章2節にも、「立つ」という言葉があります。残念ながら、新共同訳、聖書協会共同訳は、それを訳していません。口語訳ではこう訳されていました。

「キリストにより、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ」。

「今、立っているこの恵みに導き入れられた」。キリストがもたらした恵みの上に、私どもは今、立っている。確かに立っている。揺るがない恵みの上に立っている。私どもが今、立っているキリストの恵みを確認し、味わい、生きること。それが宗教改革記念礼拝を捧げる意味です。

 

②毎週礼拝前に、「聖書入門講座」が行われています。先日も、ある方から質問を受けました。「聖書を読んでいると、『義とされる』という言葉が繰り返し語られる。一体どういう意味なのですか」。「義とされる」という言葉は、ロマ書の鍵となる言葉です。5章の冒頭に出て来ます。

「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています」。

 ルターが聖書に立ち帰り、ロマ書で発見した恵みです。私どもは行いによって義とされるのではない。信仰によって、ただキリストの恵みによって義とされる。「義とされる」とは、どういう意味なのか。キリストによって、神さまと私どもの間に橋が架かることです。道が開通することです。それは言い換えれば、平和の関係が成り立つことです。言葉が通じ合うことです。

 今日、国と国との間に、民族と民族との間に、様々な対立があります。争いがあります。言葉が通じ合わない。信頼関係が成り立たない。お互い自らの義しさを主張し、相手を批判し、罵り合います。橋を架けようと持っても橋が架からないのです。道を開通させたくても、道が断絶しているのです。それは私どもの身近な人との関係にも起きています。あの人との間に橋が架からない。道が断絶して、行き来できない。言葉が通じ合わない痛み、平和な関係を築けない苦しみを、誰もが経験しています。

 更に、私どもが忘れている大切なことがあります。神さまと私どもの間にも、橋が架からない、道が断絶して開通していない。平和な関係が成り立っていないのです。言葉が通じ合わず、生きた交通が出来ない。そのままの状態では、私どもは滅びるしかないのです。しかし、主イエス・キリストが、神さまと私どもの架け橋となって下さった。神さまと私どもを結ぶ通路となって下さった。神さまと私どもの間に平和の関係を打ち立てて下さったのです。それこそが、私どもが今、立っている恵みです。この平和の関係、恵みは揺らぐことがないのです。

 

2.①先々週、金沢南部教会で、大隅啓三牧師の記念会が行われました。長く北陸伝道のために献身された伝道者でした。今年の3月、97歳で逝去され、浜松のゆうゆうの里で葬儀が行われました。沼津教会の宮本義弘牧師が記念会の説教をされました。「キリストに生かされて」という題の説教でした。

 金沢南部教会での生き生きとした伝道の姿ではなく、主に、ゆうゆうの里での晩年の大隅先生の様子を話されました。印象深い説教でした。愛する伴侶、恵子さんに先だたれ、伝道者も日に日に老いて行きます。認知症の症状が進んで行きます。宮本牧師が訪ねると、大隅先生は呟かれた。「自分で自分を受け止められない。どうしたらよいのか分からなくなる」。老いて行く不安、孤独を感じる不安、死へ向かう不安に囲まれて、身動きが取れなくなる。その時、宮本牧師が聖書を開いて読まれた御言葉がある。ロマ書8章34節の御言葉です。今日の御言葉と響き合う御言葉です。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。

 私どもがどのような状態に置かれても、主イエス・キリストが私どものために執り成して下さる。神さまと私どもの間に、橋を架けて下さった。通路を敷いて下さった。平和の関係を打ち立てて下さった。それは決して揺らぐことがない。キリストが神さまとの間に平和な関係を打ち立てて下さったから、私どもがどのような状態であっても、キリストの平安の中に置かれるのです。死に打ち勝つ平安です。不安に打ち勝つ平安です。

 ルターは語りました。

「われ、ここに立つ。主よ、われを憐れみ給え」。

 しかし、ルターは全ての人を敵に回し、いつ殺されるか分からない不安の中にありました。しかし、キリストが神さまとの間に平和の関係を打ち立てて下さった。私はどのような時も、孤独な中にあっても、死の恐れを感じる時も、キリストの平安の中にある。ルターはキリストの平安の中に立ったのです。キリストの平安に取り囲まれて立ったのです。

 

②ロマ書5章1~11節の御言葉は、福音が凝縮されている御言葉です。聖書が語りかけている福音が、この短い御言葉の中に語り尽くされています。大隅啓三牧師と同期の伝道者に、加藤常昭牧師がおりました。一昨年4月に逝去されました。亡くなられる3年前、90歳を越えていましたが、鎌倉雪ノ下教会の受難週の礼拝で、この御言葉を説教されています。「この神を誇る!」という題の説教です。説教の冒頭でこう語られた。これが雪ノ下教会で語る最後の説教となる。謂わば、遺言説教である。説教後に歌う讃美歌は、私の棺がこの礼拝堂に運ばれた時、皆さんが歌う讃美歌でもある。それが讃美歌21の454です。この後、歌う讃美歌です。この讃美歌は加藤先生が、信仰の挫折を経験し、もう立てない状況に陥った時、吉祥寺教会の竹森満佐一牧師の説教と出会い、救われた。その日の礼拝で歌われた讃美歌である。私を再び立たせた讃美歌である。

 竹森満佐一牧師の代表的な説教は、『ローマ書講解説教』です。日本説教史に遺る説教です。この説教は神学生、大学生がテープから起こした原稿を、死刑囚にも送っていました。日々死と向き合っている死刑囚を慰めた福音となりました。竹森牧師は「あとがき」でこう述べています。

「東京の一隅の教会の説教が、極限状況におかれた人びとにも、ひとしく福音として受け取られたことは、言いようのない感動をさそうことである」。

 竹森牧師はこのロマ書5章1~11節の説教で、こう語っています。

「伝道者パウロは信仰をぶつけるように、この御言葉を語っている」。

伝道者が信仰をぶつけるようにして御言葉を語る。伝道者の存在を懸けて、命を懸けて御言葉を語る。この御言葉をあなたも受け入れてほしい。あなたもこの御言葉に生きてほしい。あなたもこの御言葉によって救われてほしい。伝道者パウロの信仰と存在とが一つに結び付いた御言葉こそ、この5章の御言葉なのです。伝道者パウロが信仰をぶつけるようにして、あなたに向かって語りかけている御言葉です。

 

3.①私どもは洗礼を受け、キリスト者となっても、日々、苦しみと試練が襲い懸かって来ます。「なぜ、私だけがこんな苦しみを受けなければならないの」と呟く日々です。「なぜ、私の人生には次から次へと試練が降りかかるのか」と叫ぶ日々です。ところが、伝道者パウロは驚くべき言葉を語っています。

「そればかりではなく、苦難をも誇りとしています」。

口語訳では、「苦難をも喜ぶ」と訳されていました。一体誰が、苦難を喜び、苦難を誇りとすることが出来るのか。伝道者パウロだから出来ることであって、私どもには到底無理だと思ってしまいます。しかし、伝道者パウロは続けて語るのです。

「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません」。

 しばしば、キリスト者の部屋に、この御言葉が色紙に書かれ、額に入れられています。自らの日々の生活を導く御言葉として重んじておられます。聖書協会共同訳で変わった言葉があります。「練達」が「品格」になりました。私どもにとっては、「練達」という言葉は馴染みがあり、捨てがたい言葉です。

「患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。しかし、しばしば誤解を生む言葉でもあります。私どもの修行、努力によって、到達し、手に入れる救いの境地ではありません。元々の言葉の意味は全く違います。「練達」は「精錬する」という言葉から生まれました。鉱石を砕き、篩に掛け、不純物を取り除き、純金を取り出す。それと同じように、私どもの信仰も、様々な試練を通して篩に掛けられ、疑い、不信仰と言った不純物を取り除かれ、神さまに対して真っ直ぐに、純粋な信仰へと練り直されて行く。

 この「練達」には、「品格」という意味もあります。「練られた品性」と訳している聖書もあります。

 9月第三主日礼拝は北陸連合長老会講壇交換礼拝でした。私は富山鹿島町教会で説教の奉仕をしました。11年ぶりでした。11年前に共に礼拝を捧げた教会員が主の御許に召され、姿が見えなかったことは寂しいことでした。その一人に、石川実長老がいました。石川長老が「キリスト教入門」という求道者のために小冊子を書かれています。そのテキストを基にして、求道者会を行っていました。長老が書かれた「信仰問答」だけに、意表を突く問答があります。問1はこのような問答から始まっています。

問1「わたしは、わたしの精神的な弱さをなおすために教会へ来ましたが、なおりますか」。

答「なおります」。

問2「どうしたらなおりますか」。

答「信仰をもつことによってなおります」。

問3「どうしたら信仰をもつことができますか」。

答「神様の秘密に心を向けることによって信仰をもつことができます」。

問4「神様の秘密とはなんですか」。

答「神様が私達を愛しておられるということです」。

 素敵な問答ですね。皆さんは自分の性格を愛していますか。私は自分のうじうじしている性悪が嫌で嫌で溜まりませんでした。友だちのように明るく、さっぱりした性格を憧れました。でも、努力しても直せるものではありません。持って生まれた性格はどうしようもありません。でも、石川長老派語ります。私どもの精神的な弱さも、嫌いな性格も、御言葉によって練り直されることによって変えられるのです。御言葉によって練り直され、神さまに用いられるのです。

 「練達」という言葉には、「恵みの刻印」という意味もあります。私どもの性格に、キリストの恵みが刻まれるのです。キリストの恵みが刻まれ、キリストのために用いられるのです。

 聖書協会共同訳は、「練達」を「品格」と訳しました。「品格」という言葉は、「美しい形」という意味を持っています。一本筋が通っている姿です。その人の生き方、生活を見ていると、一本筋が通っている。美しい姿で生きている。私どもは御言葉によって、性格が練り直され、キリストが私どもの骨格になって下さるのです。その時、私どもの生き方も、生活の姿勢も、性格も変えられるのです。私どもの性格がキリストのために、用いられるのです。御言葉によって私どもの品格が形造られるのです。

「苦難は忍耐を、忍耐は品格を、品格が希望を生み出す。希望が失望に終わることはない」。

 

②伝道者パウロは信仰をぶつけて、この御言葉を私ども一人一人に語っています。特に力を込めている御言葉がこの言葉です。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。

 伝道者パウロは「神の愛」を多くは語りません。ロマ書でも多くを語るのは、「神の義」です。それだけに、このロマ書で初めて語られる「神の愛」、この御言葉は重要です。キリストは私どもに神の愛を示すために、ご自分を私どもにぶつけられたのです。キリストは存在を懸けて、ご自分の命を私どもにぶつけられた。そのことによって、神の愛が私どもに注がれていることを示されたのです。キリストが私どもを全身を注いで、むんずと捕まえて下さった。それが主イエス・キリストの十字架の出来事であったのです。

 伝道者パウロは、私どもの現実を語ります。まず私どもの弱さを語ります。私どもは弱い、弱いと言って、弱さの中にうずくまる。そこでキリストを見失うのです。弱さも罪です。次に、私どもの不敬虔、不信仰を語ります。「なぜ、神は私ばかりに、このような苦しみ、試練を降されるのか」と呟き、叫ぶ。そこで神を見失う。更に、私どもの罪を語る。罪とは、心の焦点が神からずれてしまうことです。神を見失うことです。そして最後に、私どもは神の敵であったと語ります。恐るべき言葉です。

 私どもは自らの弱さを知っています。不敬虔、不信仰を知っています。自らの罪を知っています。しかし、神の敵だとは思っていないのではないでしょうか。神の敵であるということは、神から憎まれ、怒りを注がれ、殺されるべき存在であるということです。

 しかし、神の御子である主イエス・キリスト自らが、私どもに代わって、神の敵となって、十字架で神の怒り、神の審きを受けて下さったのです。驚くべき出来事が、十字架で起きたのです。それ故、かつて神の敵となり、キリスト教会を迫害していたパウロは語るのです。

「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。・・私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。・・敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われているのはなおさらです」。

 主イエス・キリストによって、神と和解させていただいた。神との間に平和の架け橋が架けられ、神との間に平和の通路が開通した。

 

4.①伝道者パウロは最後に語ります。

「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています」。

私どもは誇り、プライドなしに生きることは出来ません。しかし、何を誇りとしているかによって、私どもの生きる姿勢が異なって来ます。この「誇り」という言葉は、悪い意味でも用いられます。パウロは甦られたキリストと出会う前は、自らの家柄、学歴、業績、職業、信仰を誇って来ました。自らを誇り、高慢の罪に生きていました。しかし、私のために十字架で死なれた主イエスにより、命をぶつけられ、命を注ぎ尽くされ、甦られた主イエス・キリストにより、愛の御手でむんずと掴まれ、生かされ、神のみを誇る者とされました。

 「神を誇る」。ルターは「神を喜ぶ」と訳しました。神を誇り、神を喜ぶ。そこに宗教改革者たちの信仰があります。週報の真ん中に、教会の標語が記されています。「主を喜び、讃美する教会」。17世紀、イギリスで生まれた『ウェストミンスター小教理問答』問1から付けられた言葉です。

問1「人間の第一の目的は何ですか」。

答「人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」。

 神を喜ぶ。それこそ私どもが今、捧げている神を礼拝することです。神を礼拝し、神を喜ぶことにより、私ども主の群れの品格が形造られるのです。私ども主の群れの信仰の足腰がしなやかで、強くされるのです。

 

 お祈りいたします。

「弱さの中で罪を犯す私どもです。自らを誇り、高慢となる私どもです。神の敵となっていることにも気づかない私どもです。しかし、主イエス・キリストは、神の敵であった私どものために、十字架で自らのいのちをぶつけて下さったのです。甦られて、愛の御手でむんずと掴まれ、私どもを生かして下さいました。御言葉によって私どもの信仰と品格を練り直して下さい。キリストの僕の共同体として、ただ神のみを誇り、喜ぶ群れとして下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。

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