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2026年9月2日

「アブラハム物語を黙想する9~神は私を笑わせてくださった~」創世記21章1~21節

創世記21章1~21節

井ノ川 勝 牧師

1.神は私を笑わせてくださった

(1)アブラハム物語の中で、創世記21章は重要な御言葉です。神がアブラハムに告げた約束が実現したからです。アブラハムとサラとの間に、跡取りの男の子が与えられます。神が約束されてから実に25年が経過していました。アブラハム百歳、サラ95歳です。

 1節「主は、言われたとおり、サラを顧みられた。そして主は、語られたとおり、サラのために行われた」。「主は言われたとおり」「主は語られたとおり」が繰り返されます。神は約束を必ず実現することを現しています。2節「彼女は身ごもり、年老いたアブラハム子どもを産んだ。それは、神がアブラハムに語った時機であった」。アブラハム物語はバビロン捕囚時代にも読まれました。国を失い、家族、友を失う中で、神の民は滅びてしまうという危機感を持ちました。しかし、神の約束がアブラハムに25年後実現したように、わが民族も神の約束が実現するとの望みを与えられ、捕囚生活に耐えました。

 3節「アブラハムは、サラが産んだ自分の子どもをイサクと名付けた。そして神が命じられたとおり、アブラハムは生後8日目の息子イサクに割礼を施した。息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった」。息子の名は「イサク」です。アブラハムが考えた名ではなく、神が与えた名です。17章10節「すると神は言われた。『いや、あなたの妻であるサラがあなたに男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、それをその後に続く子孫のために永遠の契約とする』」。

(2)6節「サラは言った。『神は私を笑わせてくださいました。このことを聞く人は皆、私を笑うでしょう』」。イサクという名は「笑う」という意味です。「神は私を笑わせてくださった」。「神が私に笑いを造り出してくださった」。真実の消えることない笑いを造り出すのは、神です。「このことを聞く人は皆、私を笑うでしょう」。二つの意味があります。90歳で子どもを産んだサラを、人々は嘲笑する。もう一つは、私と共に笑いを共有する。神から与えられた笑いを共有する交わりが造られる。

 神が老齢のアブラハムとサラに、子どもが与えられると約束した時、アブラハムもサラも笑いました。17章17節「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った。『百歳の男に子どもが生まれるだろうか。90歳のサラが子どもを産めるだろうか』」。18章12節「サラは心の中で笑って言った。『老いてしまった私に喜びなどあるだろうか。主人も年を取っているのに』」。アブラハムとサラの笑いは、神の約束を疑う冷笑、嘲りの笑い、不信の笑いです。しかし、神はイサク、私に消え去ることのない、永遠の笑いを造り出して下さった。

 7節「また彼女は言った。『サラが子どもに乳を飲ませるなどと、誰がアブラハムに言うことができたでしょう。しかし実際、私は年取った夫に子どもを産んだのです』」。アブラハムとサラは、神が造り出した笑いの相続人として、神の笑いを受け継ぐのです。

2.悲しみと涙の親子

(1)創世記21章は、もう一組の親子を描きます。アブラハムとサラに仕える女奴隷ハガルとイシュマエル親子です。アブラハム・サラとイサクとは対称的な親子です。光と影、笑いと悲しみ、涙が交錯しています。

 8節「子どもが大きくなって乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝いの席を設けた。エジプトの女ハガルはアブラハムに子どもを産んでいたが、サラは、その子が遊び戯れているのを見て、アブラハムに言った」。イサクとイシュマエルはアブラハムを父とする異母兄弟です。アブラハムとサラとの間に、子どもが与えられないので、サラの提案で、アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれた子が、イシュマエルです。女奴隷ハガルは跡取りのイシュマエルが与えられると、女主人サラを見下すようになりました。立場が逆転しました。しかし、サラに跡取りのイサクが与えられると、再び立場が逆転しました。サラは、わが子イサクがイシュマエルと遊び戯れているのを見て、不安を感じました。年上のイシュマエルがイサクをいじめていたのを目撃しました。「遊び戯れる」は「からかう」「なぶりものにする」という意味です。サラはアブラハムに言いました。

 10節「『この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子が、イサクと並んで跡を継ぐことはなりません』。この言葉はアブラハムにとって大変つらいことであった。その子も自分の子だったからである」。 

 サラは「この女奴隷とその子」と呼び捨てています。名を呼びません。そこにサラの苛立ちがあります。アブラハムはサラとハガルの板挟みに立ちます。イサクも、イシュマエルも、アブラハムにとってはわが子です。しかし、サラにとってイシュマエルは、腹を痛めたわが子ではありません。跡取りの座が脅かされるとの不安が募りました。

 12節「神はアブラハムに言われた。『あの子と女奴隷のことでつらい思いをすることはない。サラがあなたに言うことは何でも聞いてやりなさい。イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれるからである。しかし私は、あの女奴隷の子もまた一つの国民とする。彼もあなたの子孫だからである』」。

 神は女奴隷ハガルとイシュマエル親子にも、まなざしを注がれます。アブラハムの子孫として、一つの国民となることを約束します。イシュマエルはアラブ系の民族の子孫となります。

(2)14節「アブラハムは朝早く起きて、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、肩に負わせ、子どもと共に送り出した」。早朝、ハガルはわが子と共に旅立ちます。アブラハムはパンと水の革袋を用意し、ハガルの肩に背負わせ、見送ります。

 14b節「彼女は出て行って、ベエル・シュバの荒れ野をさまよった」。ハガルが向かう先は、故郷エジプトです。ベエル・シェバはカナンの最南端です。そこから先はネゲブの荒れ野です。ハガル親子は道に迷い、さまよいます。この場面は16章と重なり合います。ハガルは女主人サラの冷たい仕打ちを受け、幼いわが子を連れて、逃亡し、荒れ野でさまよいます。ハガルという名は「逃亡」「さまよう」という意味です。荒れ野でさまようことは、命の危険です。

 15節「革袋の水がなくなると、彼女は子どもを一本の灌木の下に行かせ、自分は矢の届くほど離れた所に行き、彼の方を向いて座った。子どもが死ぬのを見るのは忍びないと思ったからである。彼女は彼の方を向いて座り、声を上げて泣いた」。広大な荒れ野で泣き叫んでも、その声は誰にも届きません。助けに来てくれません。しかし、神はどんなに小さな泣き声を聴いて下さいます。

 17節「一方、神は子どもの泣き声を聞かれ、神の使いが天からハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子どもの泣き声を聞かれた。さあ、子どもを抱え上げ、あなたの手でしっかりと抱き締めてやりなさい。和大社彼を大いなる国民とする』」。

 19節「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子どもに飲ませた」。16章で、ハガルがわが子を連れて、荒れ野をさまよい歩いた時、ハガルの嘆きを神は聴かれました。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。女主人のもとに戻り、そのもとでへりくだって仕えなさい」。ハガルは「あなたこそエル・ロイです」と信仰の告白をしました。「あなたこそ顧みて下さる神です」。

荒れ野で革袋の水が尽きる。命の危険です。しかし、神は荒れ野に井戸を備えて下さり、革袋に水を満たした。詩編56編9節と重なり合います。「あなたは私のさすらいの日々を、数えてくださいました。私の涙をあなたの革袋に蓄えてください。あなたの記録にはそうするように書かれていませんか」。

 20節「神は子どもと共におられ、その子は大きくなって、荒れ野に住み、弓を射る者となった。枯葉パランの荒れ野に住み、母はエジプトの地から彼のために妻を迎えた」。神はイシュマエルとも、共にいて下さいます。インマヌエルの神となって下さいます。

森有正がこの場面を「光と闇の交差」と語り、説教しています。片方に「笑う人生」があり、他方に「涙の人生」があります。それは平行線で交わらないのではなく、交錯します。「光と闇との交錯」、「笑いの人生」と「涙の人生」の交錯。それが私どもの人生です。しかし、中心に立つのは、「あなたこそエル・ロイです「あなたこそ顧みて下さる神です」。「あなたこそインマヌエルの神です」。「神われらと共にいます神です」。

3.笑いの福音

(1)主イエスは平地の説教で語られました。「今、泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(ルカ6・21)。ルカ福音書は「笑いの福音書」です。父の家に帰ってきた放蕩息子を迎えた祝宴は笑いに満ちていました。人々に嫌われていた徴税人ザアカイの家に主イエスが来て下さった。その食卓も笑いに道っていました。一匹の迷子になった羊を見つけた羊飼い。その帰り道も笑いに満ちていました。主イエスがお生まれになった馬小屋も笑いに満ちていました。一人の罪人が神に立ち帰る時、そこには常に笑いがあります。主イエスは神の国を盛大な晩餐会で譬えました。そこに笑いに満ちた神の国の食卓があります。神の国はもはや涙も、死も、悲しみも、叫びも、痛みもない。あるのは神が造り出して下さった永遠の笑いです。主イエスは永遠の笑いをもたらした救い主です。詩編126編2節「その時、私たちの口は笑いに、舌は喜びの歌に満ちた」。

 

4.御言葉から祈りへ

 (1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月2日 コリント二6・4,9

「愛しまつる在天の父よ、あなたは地上にあってわれらをかこんでくださいます。われらはあなたがわれらの生のうちに入れてくださるすべての愛を感謝します。そうして、さまざまな試練や戦いの中にあってもわれらがよろこぶことができるようにしてくださるのです。すでにどんなに多くのことをわれらに与えてくださったことでしょうか。どんなに多くの困窮からわれらを救い出してくださったことでしょうか。そしてあなたはくりかえし人生の明るい光を照らしてきてくださいました。この光はただ一瞬にわれらを照らすばかりでなく、われらの将来をも照らします。そのことによってわれらは、現在・過去・将来にわたって力強く、大胆になり、み名をたたえるようになるのです。アーメン」。

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