1.神は人を分け隔てなさらない
(1)加藤常昭先生が東京説教塾の例会で、「説教と聖餐」という主題で講演をされたことがありました。プロテスタント教会の礼拝を成り立たせる二つの大切な要素です。書物になる予定でしたが、残念ながらそれは成りませんでした。その時、触れた聖書の御言葉が、使徒言行録10章34節以下の異邦人コルネリウスの回心の出来事でした。取り分け、ペトロの説教でした。ペトロの説教と聖霊に導かれて、コルネリウスとその家族が洗礼を受け、食事を共にしました。ここに礼拝を成り立たせる「説教と聖餐」の出来事があるのです。
(2)聖霊に導かれ、ペトロはカイサリアにいるコルネリウスの家に到着しました。コルネリウスは異邦人です。ペテロは異邦人伝道にためらいを持っていました。しかし、聖霊に促されて、ペトロは初めて異邦人伝道を行います。10章34節以下は、ペトロの説教が語られています。素晴らしい説教です。その後の教会の模範となる説教となりました。
34節「そこで、ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです』」。ペトロの悔い改めから始まっています。コルネリウスの回心の出来事は、異邦人伝道にためらいを持つペトロの回心の出来事でもありました。ヤッファに滞在中、ペトロは昼の12時の祈りの時に、天から大きな布が吊り降ろされ、その中にレビ記11章の「食物規定」に記された汚れた動物、食べてはいけない動物が入っているのを見ました。主は語られました。「ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい」。ペトロは応えます。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません」。主は語られました。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」。この不思議な出来事は、全ての食物が祝福されていることを示すだけではありませんでした。
ペトロはコルネリウスの家を訪ねた時に、真っ先に語りました。28節「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました」。神は全ての民族を祝福されている。それ故、伝道することに差別してはならない。それがペトロの説教の冒頭の言葉として語られました。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられているのです」。
2.イエス・キリストこそ、すべての人の主です
(1)ペトロの説教は続きます。36節「神は、イエス・キリストを通して御言葉をイスラエルの子らに送り、平和を告げ知らせてくださいました。このイエス・キリストこそ、すべての人の主です」。ペトロの信仰告白、教会の信仰告白です。神は人を分け隔てなさらない。それがどこに現れたのか。イエス・キリストにおいてです。「イエス・キリストこそ、すべての人の主です」。イエス・キリストにおいて、全ての民族への伝道の道が拓かれたのです。
37節「あなたがたは、ヨヘネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事をご存じでしょう。つまり、ナザレのイエスのことです」。説教の急所がここにあります。注目すべきは「出来事」という言葉です。それを「ナザレのイエスのこと」と言い換えています。説教において、出来事が起こります。主イエス・キリストとお会いする出来事です。主イエス・キリストの救いの出来事です。
38b節「神はこの方に聖霊と力を注がれました。イエスは、方々を巡り歩いて善い行いをなし、悪魔に苦しめられている人たちをすべて癒されたのです。それは、神が共におられたからです」。説教において、主イエス・キリストとお会いする出来事、救いの出来事は、「神が共におられる」出来事です。「インマヌエルの出来事」です。
(2)39節「私たちは、イエスがユダヤの地方とエルサレムでなさったことの証人です」。説教を通し、主イエス・キリストとお会いする出来事、救いの出来事に直面した者は、「キリストの復活の証人」とされます。日々の生活を通し、キリストが甦って生きておられることを証しします。
39b節「人々はイエスを木に掛けて殺しましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました」。説教が証しする主イエス・キリストの出来事、福音の中心です。主イエス・キリストの「十字架の出来事、復活の出来事、顕現の出来事」です。教会が受け継いで来た信仰告白です。コリントの信徒への手紙一15章3節「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりに私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、それから12人に現れたことです。・・そして最後に、月足らずに生まれたような私にまで現れました」。
41節「しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活された後、食事を共にした私たちに対してです」。甦られた主イエス・キリストは、真っ先に、裏切った弟子たちに現れ、食事を共にされました。聖餐の原形がここにあります。聖餐は、十字架につけられ、甦られた主イエス・キリストと相見えることです。
42節「そしてイエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、私たちにお命じになりました。イエスについては、預言者も皆、この方を信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」。説教は「イエス・キリストの名」を伝えることです。「イエス・キリストの名」によって語ることです。ペトロは法廷での説教でこう語りました。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4・12)。説教において「イエス・キリストの名」が告げられた時、「罪の赦しの出来事」が起こります。主イエス・キリストを信じる者は誰でも、主イエス・キリストの名によって罪の赦しが受けられます。そこには何の差別もありません。
3.この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか
(1)44節「ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」。説教が語られ、聴かれるところ、聖霊が降る出来事が起こります。一回一回の礼拝が聖霊降臨の出来事です。十字架につけられ、甦られた主イエス・キリストの顕現に与るからです。主イエス・キリストの名によって罪の赦しの出来事が起こるからです。
45節「割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、異邦人にも聖霊の賜物が注がれているのを見て、驚いた。異邦人が異言を語り、神を賛美しているのを聞いたからである。そこでペトロは、『この人たちが水で洗礼を受けるのを、誰が妨げることができますか。私たちと同様に聖霊を受けたのです』と言った」。説教を聴いた者全てに、ユダヤ人にも異邦人にも聖霊が降り、主イエス・キリストの名により罪の赦しの出来事が起こりました。主イエス・キリストの名による洗礼を授けることを、誰も妨げることは出来ません。
48節「そして、その人たちに命じて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けさせた」。ペトロが行う初めての異邦人の洗礼式です。
(2)48b節「その後、コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在してくれるように願った」。ペトロがコルネリウスたちは、の家に滞在したことは、食事を共にしたことを意味します。ユダヤ人は異邦人と交際しないことは、食事を共にしないことを意味しました。しかし今や、ペトロは異邦人コルネリウスとその家族と、食事を共にしています。そしてこの食事こそ、聖餐を現しています。イエス・キリストの名によって洗礼を受けた者は、共に聖餐の食卓に与る交わりに入れられるのです。
説教において、主イエス・キリストとお会いする出来事が起こる。十字架につけられ、甦られた主イエス・キリストの顕現を受ける。そこで主イエス・キリストの名により、罪の赦しの出来事が起こる。聖霊が降り、ユダヤ人も異邦人も、共に神を賛美する。そして主イエス・キリストの名により洗礼を受け、共に聖餐の食卓に与る。私どもが捧げる礼拝の出来事が凝縮されています。ペトロの手紙二1・1「私たちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」。時代を超え、場所を超え、民族を超えた公同の信仰に生きる主の群れ。それこそがキリストの教会です。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 7月16日の祈り ミカ書7・7~8
「愛しまつる在天の父よ、われらはあなたの子としてみまえに立ち、貧しく、窮迫した者、時にみじめな、苦しめられている者として、あなたを仰ぎのぞみます。あなたのまなざしをわれらの上にとどめ、われらに必要な助けを与えてください。われらがイエス・キリストの名によって集まる時、われらを祝福してください。われらがひとつの群れとなるようにしてください。この群れは、たとえ時にどんなにつらく、困難な時が来ようと、人生のあらゆる道にあって、あなたに仕えることをまなぶのです。いかなる瞬間にも正しい信仰を、よろこびを、信頼を与えてください。そしてあなたがあなたの子らと共におられ、救いの大いなる時が来るまで永遠にとどまっていてくださいますように。その時、われらは過ぎ去ったすべての人々、今日生きる人々と共によろこぶことをゆるされるのです。アーメン」。
