1.神が復活させたこの方は朽ち果てることがなかった
(1)使徒言行録14章から後半に入ります。シリアのアンティオキア教会から送り出されたパウロとバルナバの第一回伝道旅行が始まるからです。まず舟に乗って地中海のキプロス島へ向かいました。バルナバの出身地です。そして再び舟に乗り、アジアに到着し、陸路でビシディア州のアンティオキアへ向かいました。伝道は何もないところから伝道を始めます。開拓伝道と呼びます。しかし、何か取っ掛かりがあれば、それを見つけ出し、そこから伝道の突破口とします。パウロとバルナバにとっては、世界の各地に離散したユダヤ人が集まる会堂でした。安息日、ユダヤ人の会堂で説教しました。13章13節以下は、パウロの説教が記されています。実に素晴らしい説教です。パウロはこの後、行く先々で何度も説教していますが、その最初の説教が記されています。説教とは何かを問う時に、大切なことが語られています。
(2)ここで興味深いことが語られています。ユダヤ教の会堂での礼拝の姿を知ることが出来ます。それがキリスト教会の礼拝の原形となります。14節「安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った」。礼拝が礼拝として成り立つために何が必要なのかが分かります。聖書が朗読され、「励ましの言葉」「慰めの言葉」が語られることです。聖書と言いましても、「律法と預言者の書」です。旧約聖書です。ユダヤ教徒とキリスト者の共通の神の言葉です。しかし、パウロが語った説教の特色は、旧約聖書は主イエス・キリストを証言している、指し示していることです。そして旧約聖書の様々な箇所を取り上げ、キリストの十字架と復活の出来事を証言していることを明らかにしています。
37節「神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。十字架につけられた主イエス・キリストは、神に甦らされて、朽ち果てることのないものとされた。私どもは主イエス・キリストによって罪赦され、キリストを信じるだけで義とされ、私どもも朽ち果てることのない者とされるのです。永遠の命に生かされるのです。このパウロの説教は、ペトロの説教が語る福音と同一です。2章36節。
2.神の恵みの下で生き続けるように勧めた
(1)更に興味深いことは、説教を聴いた会衆、礼拝を捧げた会衆の反応が記されていることです。それが42節以下に記されています。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次に安息日にも同じことを話してくれるように頼んだ」。これは重要な反応です。次の安息日には、違う話をしてほしいと頼んだのではありません。また「同じ話」を聴きたいと頼んだのです。礼拝説教で語られる福音は、いつも同じです。そなわち、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。コリントの信徒への手紙一15章で、パウロは「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです」と語り、伝えられた「福音」を語りました。「教会の信仰告白」です。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと。ケファに現れ、それから12人に現れたことです」。パウロは伝えられた「教会の信仰」を語りながら、「私の信仰告白」を重ねます。「そして最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れました」。
43節「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を崇める改宗者とが付いて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」。礼拝が終わった後、礼拝者が福音の余韻の中に置かれました。それ故、集会が終わってからも、多くのユダヤ人、神を崇める改宗者・異邦人が、パウロとバルナバと説教を巡って、福音を語り合いました。私どもに問われていることです。礼拝が終わった後のロビーでの会話は、福音の余韻の中でなされているかが問われます。礼拝の最後で、甦られた主イエス・キリストから祝福・派遣命令を受けた私どもは、日々の生活で「神の恵みの下に生き続けるよう勧め」られました。「勧めた」「慰めた」。礼拝から生活へ、福音から倫理へです。それは別々のものではなく、一つに結び付いているものです。礼拝の主であるイエス・キリストは、私どもの生活の主でもあられるからです。「慰めの言葉」が支配しているからです。
(2)44節「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」。驚くべきことです。次の安息日、ほとんどの町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来ました。注目すべきは、「説教」を「主の言葉」と呼んでいることです。礼拝は、パウロ先生の話を聞くために集まるのではなく、「主の言葉」「神の言葉」を聴くために集まる。45節「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどく妬み、口汚く罵って、パウロの話すことに反対した」。もう一つの説教の反応です。ユダヤ人は、「主の言葉」を聴くために集まる会衆の姿を見て、喜び、歓迎したのではなく、ひどく妬み、口汚く罵りました。パウロが語る「慰めの言葉」に反対しました。説教の聞き手には、同調者だけでなく、反対者もいます。
46節「そこで、パウロとバルナバは堂々と語った」。「堂々と語る」は、使徒言行録が好む言葉です。4章13節「人々は、ペトロとヨハネの堂々とした態度を見、二人が無学で普通の人であることを知って驚き」。「堂々と語る」は「大胆に語る」という意味です。無学で普通の人が聖霊によって大胆に語る者とされるのです。
46節「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命にふさわしくない者にしている」。パウロはここでも説教を「神の言葉」と呼びます。パウロは面白い言葉を語ります。神の言葉を拒む者は、自分自身を「永遠の命にふさわしくない者」とすることです。神の言葉に生きる者は永遠の命にふさわしく生きる者。日々の生活にあっても永遠の命の香りを放つ者です。「永遠の命」にふさわしく生きることは、パウロの別の言葉で言えば、「キリストの香り」を放つ者です。コリント二2・15.
3.私はあなたを異邦人の光とし
(1)46節「そこで、私たちは異邦人の方へと向かいます」。パウロがユダヤ人伝道から異邦人伝道へ転換する出来事となりました。47節「主は私たちにこう命じておられるからです。『私は、あなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とした』」。パウロは異邦人伝道の典拠となる旧約聖書を挙げています。イザヤ書49章6節です。「私はあなたを諸国民の光とし、地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする」。
使徒言行録を記したのはルカです。ルカはルカによる福音書でも、重要な場面でこの御言葉を記しています。ルカ2章29節以下、「シメオンの賛歌」です。老人シメオンが幼子イエスを抱いた時に、神をほめたたえた賛歌です。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光」です。シメオンは主イエスこそ「異邦人を照らす啓示の光」と呼びました。しかし、パウロは自らも「異邦人の光」と呼んでいます。主イエス・キリストによって異邦人に光を照らす器として召された。
48節「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を崇めた。そして、永遠の命を得るように定められている人は、皆、信仰に入った」。パウロの説教、「主の言葉」により、異邦人伝道の実りが与えられました。「永遠の命を得るように定められている人々は、皆、信仰に入った」。面白い表現です。ユダヤ人が確信していたことです。自分たちは神によって永遠の命に定められている者だ。しかし、パウロは説教で語りました。「モーセの律法では義とされなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。主イエスを救い主と信じる者は、ユダヤ人も異邦人も皆、義とされ、永遠の命に生きる者とされる。
(2)49節「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」。50節「ところが、ユダヤ人は、神を崇める貴婦人たちや町の有力者たちを唆して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで二人は彼に対して足の埃を払い落とし、イコニオンに行った」。ルカ9章5節。主イエスが12人の弟子たちを伝道に遣わされる時に語られました。「あなたがたを受け入れない者がいれば、その町を出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに足の埃を払い落としなさい」。御言葉を語っても語っても、それを受け入れない者がいれば、その町にずっと留まらなくてもよい、足の埃を払い落とし、次の町へ向かいなさい。
52節「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」。この弟子たちは、ビシディア州のアンティオキアで、主の言葉を信じた者たちです。主の言葉に慰められ、喜びと聖霊に満たされて信仰生活を送りました。
4.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 9月17日の祈り マルコ7・37
「主よ、われらの神よ、あなたは天と地をご自身の霊をもって満たし、あなたがわれらに与えてくださる賜物にあずからせてくださいます。われらは、あなたがわれらに与えてくださるもの、すでに与えてくださったもの、更に与えようとしていてくださるもの、そのすべてを感謝します。われらは貧しいものです。人間は貧しいのです。もとより人間は多くの努力をし、慕いこがれ、探求します。だがあなたが聖霊をもって何ものかをめざめさせてくださらなければなりません。それによってわれらは善き目あてに向かって前進することができるのです。われらが人間のすることだけに頼るままにしないでください。われらが心に抱く最も大いなるものは、あなたがしてくださることなのです。われらのだれもがそのことについて語りうるはずです。われらひとりびとりに、自分が思いもかけなかったのに、意外にもすでに助けが与えられているのです。あなたはわれらにどんなに多くのことをしてくださったことでしょう!もろもろの民にしてくださったことでしょう!そうです、われらは自分の教の時代のためにも感謝するのです。今日の時代はわれらにとって時に貧しく、なやみ多きもののように思われますが、なおあなたのもろもろの力は生きているのです。あなたの力は人間に助けを与え、更に生命を回復することをゆるしてくださるのです。まことにひとつの時代が来るのです。その時われらの霊もまた、今自分たちがその中に立つ飢えから救われるのです。あなたがイエス・キリストによってわれらに与えてくださる高き生命に飽くことをゆるされるのです。アーメン」。
