1.パウロの第三回伝道旅行 トロアスからミレトスへ
(1)使徒行伝には、最初の教会で行われた説教が収められています。今日の教会の説教の原形となっています。聖霊降臨の日に語られたペトロの説教(2・14~36)、殉教の時に語られたステファノの説教(7・153)があります。それと並ぶパウロの説教が20章に記されています。パウロがエフェソの長老に語った遺言説教(20・17~35)。パウロの説教の中でも代表的な説教です。私はパウロのこの遺言説教に触れる度に、伝道者としての新たな召命を与えられます。伝道者だけではなく、エフェソの長老も、パウロのこの遺言説教を聴き、長老としての新たな召命が与えられたと思います。伝道者、長老の使命とは何か。教会の使命とは何か。それが鮮明に語られています。今日と来週の2回に亘り、パウロの遺言説教を黙想します。
(2)パウロは第三回伝道旅行で、アジア州のエフェソで3年間伝道し、第二回伝道旅行で廻ったギリシア半島のマケドニア州、アカイア州の町々を訪れました。そして、アジア州の港町トロアスを訪ね、そこで七日間滞在し、安息日、夜を徹して礼拝を捧げました。本日の20章13節以下は、その続きです。
「さて、私たちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。そこからパウロを乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示していたからである」。
パウロの一行はトロアスから船に乗り込み、アソスに向けて船出しました。ところが、パウロ一人だけ歩いてアソスに向かいました。その理由は記されていません。会いたい人がいたのかもしれません。
14節「アソスでパウロと落ち合ったので、私たちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出してキオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、さらにその翌日にはミレトスに到着した」。
パウロの一行は第三回伝道旅行の最後に、アジア州のミレトスの港町に立ち寄りました。そこでどうしても、しなくてはならないことがあったからです。
16節「パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである」。
パウロは第三回伝道旅行の最後に、もう一度、エフェソに立ち寄りたいと思っていたようです。しかし、五旬祭(ペンテコステ、聖霊降臨日)には、エルサレムに着いていたいと思ったので、エフェソには立ち寄らずに、その近くのミレトスに寄航しました。ある目的があったからです。
2.パウロの遺言説教
(1)17節「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた」。
パウロがミレトスの港町に立ち寄った理由は、ただ一つ。エフェソの長老たちに会って、どうしても伝えたかったことがあったからです。これがパウロの遺言説教となりました。もう二度と会うことはないと、涙を流しながら語られた説教です。
18節「長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。『アジア州に足を踏み入れた最初の日以来、いつも私があなたがたとどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身に降りかかって来た試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました』」。
パウロの伝道者としての姿勢が表されています。「謙遜の限りを尽くし、涙を流しながら、主にお仕えしてきた」。「謙遜の限りを尽くし」という言葉は、道徳的な意味での謙遜ではありません。「謙遜」は、神の御前で打ち砕かれるという意味があります。詩編51編の「悔い改めの詩編」の御言葉と響き合います。19節「神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮られません」。御言葉により「打ち砕かれ悔いる心」です。神の御前で、御言葉により打ち砕かれ悔いる心をもって、主にお仕えして来た。伝道者は様々な試練に直面し、涙を流しながらも、ひたすら主にお仕えする存在です。
私が按手を受けた時、中部教区議長は説教で語られました。「伝道者にとって最も大切なことは謙遜です。自分が小さな存在であることを忘れてはならない」。伝道者にとって最大の誘惑の罪は高慢です。しかし、神は小さな存在である私を選ばれ、恵みを注いで主のために用いて下さるのです。
20節「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」。
「役に立つこと」とは、伝道、信仰にとって、役に立つことです。パウロは一つ残らず、全てを注いで、エフェソの長老たちに伝え、教えて来ました。
21節「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです」。
伝道と信仰において大切なことは、「神に対する悔い改め」と、「私たちの主イエスに対する信仰」です。「神に対する悔い改め」は、神に立ち帰ることです。「私たちの主イエスに対する信仰」。教会の信仰は、「主イエスとは誰か」という「キリストへの信仰」を明確にすることです。日々の生活で、いつも主イエスを仰ぐことです。
(2)22節「そして今、私は霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難が私を待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきりと告げてくださっています」。
「そして今」という言葉が、22節、25節、32節で、三度繰り返されています。神が与えられた今という時です。「霊に促されて」は、「聖霊に捕らえられて」「聖霊に絡まれて」という意味です。パウロは今、エルサレムに帰ります。しかし、エルサレムにはパウロを捕らえ、殺そうとする不穏な動きがあります。にもかかわらず、パウロは今や、エルサレムに行かなければならない。それは聖霊に促され、捕らえられ、絡まれたからです。私の思いではなく、聖霊に促され、捕らえられ、絡まれて、導かれることです。それが「主にお仕えする」ことです。
24節「しかし、自分の決められた道を走り抜き、また、神の恵みの福音を力強く証しをするという主イエスからいただいた任務を果たすためには、この命すら決して惜しいとは思いません」。
伝道者は自分が決めた道を走り抜くのではありません。主によって自分に決められた道を走り抜くのです。パウロは伝道者の人生を、「走り抜く」という言葉で表しました。コリント一9・24~27.フィリピ3・13~14.テモテ二4・6~8.また、パウロの手紙ではありませんが、ヘブライ12・1~3.伝道者は先頭に立つ主イエスを仰ぎ見ながら、主に定められた道を走り抜くのです。
なぜ、伝道者は走り抜くのか。主イエスからいただいた任務を果たすためです。それは神の恵みの福音を力強く証しすることです。そのために自分の命すら決して惜しいとは思わないとまで言っています。殉教の覚悟をしています。そして今、伝道者に与えられた任務を、エフェソの長老たちに託すのです。
(3)加藤常昭先生の先生であり、友人であったボーレン先生が2度目に来日された時、東京神学大学で講演をされました。神学生から質問がありました。「21世紀、日本で伝道する私たちに助言を下さい」。その時、ボーレン先生は答えられました。「思い煩うな」。その後、名古屋でセミナーをされました。若い伝道者が質問しました。「自分の説教が会衆に伝わらない。どうしたらよいか」。ボーレン先生は答えられた。「東京神学大学で神学生に答えた言葉を訂正する。殉教の覚悟をしなさい。あなたはこの会衆のために死ぬ覚悟で、御言葉を語りなさい。そうすれば、会衆に御言葉が届くでしょう」。一回一回の説教が殉教の覚悟を迫られるということです。
3.御言葉から祈りへ
(1)ブルームハルト『ゆうべの祈り』(加藤常昭訳) 1月28日の祈り 詩編32・8
「主よ、われらの神よ、われらは今みまえに進み、あなたに祈り願います。たとえわれらがそのことをさとり得ぬことがしばしばありましょうとも、われらのすべての人生においてわれらを助けてください。聖霊とみ手をもってわれらと共にいまし、われらを導き、苦しみ耐え忍ばなければならぬ時にも、いっさいのことにあってもみ心を行なわせてください。み心は善なるものであり、いっさいを正しくしてくださるにちがいありません。それゆえにわれらを助け、みことばによって、われらがあなたについて聞くことのできるすべてのことによって、われらを祝福してください。あなたはわれらの神であり、父であられるのです。アーメン」。
