時代背景
パウロがこの手紙を書いたのは、紀元50年代、イエス・キリストが十字架にかかり復活されてから、まだ20年ほどしか経っていない頃でした。この時代には、まだマルコやマタイなどの福音書は書かれておらず、人々は口伝えで主イエスの教えや出来事を知っていました。
つまり、パウロの手紙は、新約聖書の中でも最も早い時期に記された信仰の証言です。
そのため、パウロの言葉からは、初代教会がどれほど熱く、また真剣に「信仰とは何か」を守ろうとしたかが伝わってきます。
直面していた問題
教会に入り込んだ一部の人々が「捧げもの、食物規定、律法を守らなければ救われない」と教え始めました。それによって信徒たちが混乱し、「信仰による救い」から「律法による救い」に引き戻されそうになっていた。
それに対してパウロは、強く反対し、「他に福音はない」1:7と断言します。主イエスの十字架以外に救いはない。そんな風に、初代の教会が、パウロと共に真剣に、主イエス・キリストに立ち帰る、「信仰とは何か、救いに道筋、どうやったら救われるのか」に取り組んでいたのです。
人によってではなく 神によって
冒頭から、6節、8節などのパウロの言葉を読みますと、けんか腰に聞こえます。私は、イエス・キリストによって立てられているのだ。人からではない、神からのものなのだ。福音はただ一つ、変えようがない。文句ありますか、と言う感じの書き出しなのです。
傲慢に語っているのでしょうか。傲慢に語っているのかを、今日は何度も確認したいのです。以前のパウロは、迫害していたのです。大失敗をしたのです。もう生きていてはいけない大失敗です。パウロは自分のことを「値打ちのない者、生まれ損ない」とまで言います。そのパウロが、イエス・キリストによって赦され、使徒となって生かされています。ですから、この書き出しは、「あ~、パウロは、傲慢から語っているのではない。傲慢からじゃないんだ」。1章を読み終わった頃には、そんな風に胸を熱くするのではないでしょうか。
1:6「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に移って行こうとしていることに、私は驚いています」。
原文をそのまま訳せば、「呆れ果てている」と言うのです。「ありえないことだ」とパウロは言っているのです。キリストの恵みによって招かれたのに、こんなにも早く他の教えへ、離れてしまうなんて、ありえない、もったいないことだと言うのです。しかし、パウロは決して傲慢に上から押さえつけているわけでもありません。冷静に告げているのです。
キリストの恵みです。救われたこと、神様の国の扉が開かれ、キリスト者として永遠の命に生かされている、本来なら自分で得ることのできないことです。それを、神様からただで頂いたのです。あなたたちが、相応しいから頂くことができたのではない。立派だから招かれたのではない。神の恵みによって、ただで招かれたのです。それなのに、それを捨ててしまうのですか。離れてしまうのですか。パウロが、こんなにも熱く語る、それほどの恵みを、この私も、神様から頂いているということを改めて知らされる箇所です。
相応しくなかったのに招かれたから、今ここに
マタイ22:9~10は祝宴のたとえが語られています。「『見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい』それで、その僕たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、祝宴は客でいっぱいになった」
神様は、誰でもいいからひっぱって来て、祝宴の席を満たしなさい。僕たちは、「そんなのありですか」と思うのです。けれど、神様はそんなことをなさるのです。誰でもいから、招かれないような人でもいいから。「えーこの人もですか?」と思うような人でも、誰でもいいから引っ張って来なさい。
そして、イエス様はおっしゃるのです。そうやって、「あなたがたも招いていただいたから、今、ここにいるのですよ」
そうやって私たちも招かれ、今ここに座っています。神様の恵みによって招かれたのです。
それなのに、「神様の恵みによって」という福音をねじ曲げて、違う教えを伝えるのですか。ありえない、ありえない、最初に聞いた福音から離れるなんて。パウロは「驚きです。びっくりです」と言うのです。
相応しかったからではなかったのです。神様が愛の御手で掴んでくださった、ただただ恵みによって掴んでくださった。その福音から離れるなんて。パウロは言うのです。
ここに、救いの本質があるのです。私たちの救いとは何でしょうか。
「相応しくない者を救うために、主イエスが、十字架について身代わりに死んでくださいました」。
主イエスが、命を捧げて、救ってくださったから。神様の一方的な恵みです。
ですから、パウロは、繰り返し語るのです。私が、どうやって救われたか。熱心に何度でも、何度でも同じことを語ります。それは、自分の失敗談です。情けないと思える話しです。もう過去の自分だから、触れないでほしい苦い思い出です。私たちも、過去の自分に触れられて、いやな思いをすることがあります。けれど、「あ~あの失敗があってよかった。私は生まれ変わった。だから、人の救いのために、同じように苦しんでいる人のために伝え続けたい」そうパウロは語るのです。
パウロは、自分に反抗する者、間違っていると思う人を、徹底的に追い詰め、捕らえ、追い出し、獄に入れていたのです。私のしていることこそ、神様に仕えている。間違っている者を捕らえ、徹底的に裁く。これこそ正義だ。神様への熱心からしていたのです。神様のために役に立っている、神様に仕えている。しかし、どうでしょうか。「あなたは間違っている」と熱心に迫害していたのは、神ご自身だったのです。熱心でした。そして、熱心に迫害していたのは、神ご自身だったのです。
こんなに恥ずかしいことはありません。恥ずかしいではすみません。惨めです。情けない。もう生きてはいけない程ショックを受けるのです。
自分こそ信仰熱心だと思っていたのに。誰よりも学び、誰よりも経験を積み、神に近い、救いに近い、私こそ救われるに相応しい。そう思っていたのに。
自分に反抗する者を鞭でうち、平手でたたき、唾を吐きかけ、十字架につけ、裁き、殺してみたら、神だったのです。「サウル、サウル、何故、私を迫害するのか」
それから、彼は、もう自分のことを、王、サウルとは呼べなくなりました。こんな私をそれでも愛し、救ってくださる主イエス・キリストに打ち砕かれます。それでも愛してくださるのですか。そして、彼は言うのです。私は、最も小さい者、チビ、チビ。それでいい。それがいい。イエス・キリストの使徒となった小さい者。それくらい大変なことだったのです。
私たちの人生にイエス・キリストが来られた。これは、どれほど大きな出来事でしょうか。私たちが、イエス・キリストに出会った。あの日は、人生における最大の事件です。ですから私たちは、繰り返し、繰り返し、何度でも思い出したほうがいいのです。パウロが、そういう生き方でした。
いちじくの木の話しがあります。マルコ11:12~14、20~21。
主イエスが弟子たちと共に、エルサレムに来られた時、いちじくの木をご覧になりました。そして、実を探されたのに何もなかったのです。季節でなかったからです。そこで、主イエスは、その木を枯らしてしまうのです。 弟子たちは思ったでしょう。「季節じゃないのだから、実がないのは当然でしょう。そんなことで呪われ、枯らされてはかなわない」。
けれども、ここに深い意味があるのです。主イエスが来られるというのは、そういうことなのです。「私の季節ではありません」とは言えないのです。
パウロもそうでした。彼は、「私は熱心に、神のために迫害をしていた」と言います。間違っている人を捕らえ、追い出し、獄に入れていた。そんな人間でした。それでも、主はそんな彼のところに行くのです。
「今は立派ではないから、私の季節ではないから、主よ、来ないでください」。そうは言えません。
私たちが、主イエスと出会う時、私たちは、救われなければならない時なのです。そのままでは、神の国に入れない。自分の相応しさでは、とても届かない。
「これが私の生き方です。もう変えられません」と言ってはいられない。神の国へ、救いへ、自分の相応しさでは、とても届かないのです。
だから、神の御子が十字架にかかり、私たちの罪を身代わりに負ってくださったのです。「これが私の生き方です。もう変えられません」が、変わっていくのです。
自己吟味の人 十字架のもとで
8~9節。「私が、告げ知らせる福音に反するものをのべ伝える者は、呪われよ」。強い言葉です。これは、パウロの自己絶対化でしょうか。「自分が正しい」と言っているのでしょうか。そうではありません。
パウロはキリスト者となってから、常に、十字架の主イエス、そして復活の主イエスを仰ぎ見ながら、自分を吟味し続けた人でした。自己吟味の人でした。
十字架のもとにぬかずき、「自分が絶対に正しい」などとは言えない。ローマの信徒への手紙3章で繰り返し語りました。「正しいのは主イエスただお一人」
だからこそ、パウロはいつもそこに立ち返っていたのです。その立ち位置から、彼ははっきりと告げました。「主イエス・キリスト以外のものを神と崇めることは間違いだ」と。「自分自身を神と崇めることも、人を神と崇めることも間違いだ」と。
パウロが語る「呪われよ」という強い言葉の背後には、自分自身を絶対化するのではなく、「正しいのは主イエスただお一人」という、へりくだった信仰が現されているのです。
色々なパウロの手紙に出て参ります。「始めに聞いた福音」。あなたたちも救われたはずです。とどまろうよ。パウロは言っています。礼拝にとどまろう。礼拝にとどまりながら、信仰は成長していきます。神様の御力が働くからです。
この世の力、この世の価値観が、信仰を惑わす時もあります。成長とは、惑わす言葉の中で、キリストにとどまり続ける力です。この世に対して、しなやかで、寛容であるけれど、間違った福音に対して同調せず、ぶれないでいられること。そんな成長が、神様の御言葉を聞き続け、礼拝を守り続け、祈り続けることで、神様の方から与えられて来ます。
パウロは、もう自分を王、サウルと呼べなくなって小さくされて、この1章を語るのです。
この1章、最初は、傲慢に聞こえた挨拶も、傲慢からの言葉ではない。パウロの愛から語っていることが伝わってくるのではないでしょうか。こんな私が救われた、あなたも救われたはず。だから、新しい人も招こう。一緒に礼拝にとどまろう。この1章は、愛のある内容なのです。
人生の見直し
ここから更に、「人ではなく、神によって」というメッセージが強められていきます。
10節「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか」、以前のパウロは、「人に取り入ろうとしていたのです」「人の歓心を買おうと努めているのでしょうか」以前のパウロは、「人の歓心を買おうと努めていたのです」
パウロは、みんなから注目され尊敬されていました。周囲からも「相応しい」と言われ、本人も「自分は相応しい」と思っていたのです。けれど、彼の人生は一変しました。彼が、必死になって滅ぼそうとした「間違った教え」。それが神ご自身だった。
私たちは、人生の見直しが起こる時があります。時々「見直し」を迫られる時があります。自分の歩みを振り返り、「これで良いのか」と問わざるを得ない瞬間があるのです。パウロは、見直さざるを得なかったのです。主イエスによって、見直さざるを得なかった。
それは、全く、都合のいい話しではありません。私たちの人生もどこかで神様から、見直しを迫られる時があるのです。神様のタイミングです。「今、私は正しいから大丈夫です。順調だから違います」。そうではなく、神様のタイミングで起こってきます。
アブラハムもそうでした。99歳で名前を変えさせられました(創世記17章)。生き方を変えさせられました。
それは、自分にとって、都合のよい話しではありません。自分の人生の見直しを、聖書から迫られる。けれど、そこで、裁かれ、滅ぼし尽くされるのではなかったのです。そこで、主イエスが、その裁きを、滅びを身代わりに受け、命を捧げて救ってくださったのです。
本来、裁かれ、滅ぼされるべきは、この私です。鞭打ち、平手で打ち、唾を吐きかけてたお方が、それでもなお、この私を、救ってくださったのです。
「あなたは赦され、神の国は開かれた。だから、あなたは新しく生きるのだ」。そう言ってくださる。その甦りの主イエスに出会ったのです。赦されて、新しい生き方が始まっているのです。
パウロは、「あの人はゆるせない、あの人もゆるせない、裁かれるべきだ」。そう思っていました。
しかし、今や、彼は、ゆるされなければならない存在となったのです。
ゆるされなければ生きてはいけない存在となったのです。そして、そのことが救いです。涙の中の喜びです。
感謝して、生かされる存在となったんです。
ですから、パウロが語る15~16節「母の胎にいる時から私を選び分け」これは大変なことを語っているのです。ここも傲慢ではありません。「選ばれた」。決して、傲慢ではありません。
母の胎の中にいた時から、主イエスにゆるされなければ生きてはいけない者、身代わりに死んでもらわないと生きてはいけない、キリストに救ってもらわないと神の国に入ることができない者、だということを、神はご存知だった。決して傲慢ではなく、むしろへりくだっているのです。
小さくなって、神様にぬかずく。母の胎にある時から、神に知られていた。そして、こんな私たちが、神様の栄光のために、神様の国の実現、神の平和のために、用いられているのです。
だからパウロはしみじみ言うのです。「あ~、私は、母の胎のうちにある時から」。
パウロは、いつも信仰の本質を語ります。
キリスト者になっている。それは、「どうしようもなく。自分から選びようもなく」なんです。失敗して、間違って、神の御子の命を犠牲にして、泣いて、赦され、どうしようもなく、自分から救われるのでもなく、赦していただいて、生かされている。
それが、母の胎のうちにある時から、決まっていた、というのです。神様の国を実現する者へと、愛を行う者へと選ばれていた。これは本当に、この世の選びではなく、神様の御業、神様の出来事です。
神様と向きあう
だから、パウロは、人の言葉ではなく、神様の言葉に聞くことに集中していきます。人からではなく、神を通して。今日、何回も語ります。
そのことが最もよく表現されているのが15~17節です。
「あなたは、まだ神様を全く知らない異邦人たちの所へ向かいなさい」。パウロは、神様からの声を聞いたのです。この声は、本当かしら?分からない。どうしたらいいのだろうか。悩みに悩み、パウロはどんな行動を取ったのでしょうか。
人に気を遣ったなら、エルサレムの偉い人を訪問し、相談に行くでしょう。けれど、そうではなかったのです。アラビアの砂漠に退いたのです。神様と一対一になって、神様とただ二人きりになったのです。
そして、パウロは神様と向きあって格闘したんです。神様との格闘。それは、負け戦なのです。パウロは分かっていたのです。負け戦だ。しかし、嬉しい負け。
例えば、頼りになる長老、尊敬していた牧師が誰にでもいらっしゃいます。その方がいた時、かなわなかったのです。すごいなぁと思わされた。負けていた。けれど嬉しい負け。安心して、負けていられた。神様は、そういう存在です。どーーんと向かって行って、言いたいこと何でも言って、けれど、最後には、ころんと投げられるのです。そして、「あーどうやっても超えられないお方がいる。よかった。安心。だから、どうにでもしてください。安心してあなたに負けて、ゆだねます。あなたから来る祝福こそ、この世を超えた、何ものにも勝る幸せだと分かります。だから、あなたに安心して負けています」。そのような感じなのです。
ですからパウロは、これから、神様のために遣わされる時、血肉に、人に相談しませんでした。エルサレムに行けば、力のある人の意見を聞くこともできるかも知れない。けれど、しなかった。「できなかった」と言うのが正しいかもしれません。パウロはもう、今や「できなかった」。神様の偉大さが分かるからです。ただただ、神様に向かうしかなった。
パウロは、自慢して言っているのではないのです。「できなかった」。ここには、そんなニュアンスがあります。
不都合な真実
パウロは、ペテロとヤコブ、仲間2人に会っただけ。この2人が、パウロのこれからを保証してくれる程、権威のある人ではありませんでした。この2人に会っておけば大丈夫という2人ではないのです。
パウロは、信仰の先輩であるペテロのしていることが間違っていると注意したこともありました。失敗をするペテロです。ペテロの裏切りは、聖書にしっかりと記録されています。
主イエスが、「私は、十字架につけられ殺される」と弟子たちに言った時、「そんなことがあってはなりません」とペテロは堂々と主イエスを叱ります。すると、主イエスから、「あなたは、何も分かっていない」と逆に叱らます。苦い思い出です。
「私は、どんなことがあっても、あなたを見捨てません」と言ったら、主イエスに、「あなたは、私を知らないと言うだろう」と予告されてしまいます。悔しい思い出です。そして、その通りになるのです。情けない思い出です。
苦い思い出、悔しい思いで、情けない思い出。ペトロの間違い、叱られたこと、裏切ったこと、逃げたこと、全て、語り継がれるのです。しっかり書き残され、聖書となるのです。
当時、書き残した文章が、集会や礼拝で読まれる度に、ペトロは、どう思ったでしょう。「もうやめてほしい。聞いていると辛い」。そんな風に思った時もあったでしょう。「もう、話してほしくない」。
不都合な真実なんです。
けれど、この話しを聞いて救われる人がいる。この話しを聞いて、主イエスに出会い、救われる人がいる。生かされていく人がいる。それなら、仲間の救いのために、祈るように、語り伝えるようになったのです。苦い思い出だけれど、喜ばずにはいられない。そんなペテロです。
それは、パウロも同じだったと思います。
過去に、大きな、大きな失敗があります。迫害していたのです。そのことが、聖書にしっかりと刻まれて、繰り返し、読まれ、知られていくのです。どんな思いでしょう。仲間のために、仲間が救われなら、新しい人が救われるなら、と語り続け、人々によっても語られ続けるのです。
そして、今、私たちにも届いています。
だからパウロは、遣わされる時、「こんな私が救われた、神様は偉大なお方」。それが最大の保証となったのです。こんな私が救われた。それが何よりも証拠でした。だから、彼は、エルサレムの有力な人をも頼らなかったのです。これは、傲慢ではありませんでした。大間違いしていた私、大失敗した私、こんな私を救った神様。神様の側に立つ。そんな自分を知ってもらう。これこそが、神の偉大さを現す、証拠だったのです。
立派な信仰者。知識があり、力があり、相応しい、立派さを、人に保証してもらい、新しい人たち、求道者たちに信頼してもらう。そういう風には、歩まなかった。それがパウロでした。
神様に救われた。赦してもらった。それが私です。これが、今日、1章のパウロの挨拶です。間違って、失敗して、主イエスに叱られた。小さい者、チビで幸せ。嬉し涙を流す、そんなパウロの自己紹介です。
